道元(鎌倉時代)

Dogen

<出典:wikipedia

道元(どうげん) 1200年~1253年

 

1200年。

道元は上級貴族の子として誕生。

小さいころに両親を亡くしたため、13歳のときに比叡山延暦寺に入り、翌年、になりました。

延暦寺で天台宗の教えを学んでいた道元は、その教えに疑問を持つようになり、山を下りて建仁寺に入ります。

建仁寺は、臨済宗(りんざいしゅう)を開いた栄西(えいさい)が建てた寺。

道元はそこで臨済宗の”禅”を学びました。

そして、”禅”をさらに深く学ぶため、中国(宋)へと渡ります。

 

中国に渡った道元は、各地の寺で修行を積んでいきます。

やがて、天童子(てんどうじ)の有名な僧である如浄(にょじょう)の教えを受けるようになります。

そして、ひたすら座禅することで悟りを開こうとする曹洞宗(そうとうしゅう)の”禅”を学びました。

ひたすら ひたすら 座禅

1227年。

帰国した道元は、建仁寺に戻り曹洞宗を伝えます。

「静かに座り、心を無にして行う座禅こそが、悟りを開く正しい教えである」

といって、座禅のやり方や心得を示し、人々に勧めたのです。

 

ひたすら座禅することで悟りを開こうとする道元の教え。

次第に武士たちの間に広まっていきます。

しかし、延暦寺から迫害を受けるようになってしまいます。

そこで、京都深草に移り、興聖宝林寺(こうしょうほうりんじ)を建てて禅を広めました。

 

延暦寺の迫害に対して、道元は禅こそが国を守る正しい教えであると反論。

しかし、朝廷が延暦寺を認めるとさらに迫害が強くなっていきます。

 

1243年。

弟子の波多野氏の招きで、福井県に行きます。

そして、大仏寺を建ててここに住むと、やがてそこを永平寺(えいへいじ)と改めます。

1247年。

鎌倉幕府の執権、北条時頼の招きを受けると、道元は鎌倉へ行きます。

北条時頼は道元に「寺を建てる土地を与える」と提案。

しかし、権力者とのつながりを嫌う道元は、それを拒否。

そのまま永平寺に帰っていきます。

 

永平寺に戻った道元は、弟子を育てることにいっそう力を入れます。

また、禅の本質などを説いた『正法眼蔵』を書き続けます。

しばらくして体調を崩した道元は、療養のため京都へ。

1253年。

その後、病気により亡くなりました。

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