蘇我馬子(古墳時代)

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蘇我馬子  ??~626年

勢力を拡大した蘇我氏

6世紀になると大和政権は地方の豪族を治めて、勢力を広げていきました。

しかし、それとともに政権内部では豪族どうしの争いが激しくなります。

6世紀中旬。

朝廷の財政を担当していた大臣・蘇我氏が勢力を拡大していきます。

蘇我氏は、朝鮮から渡ってきた人々と手を結び、政治の仕組みを変えようとします。

しかし、これに反対する勢力がありました。

それが、軍事担当の大臣・物部氏です。

物部氏は蘇我氏の政治に反対し、次第に対立を深めていきます。

 

572年。

蘇我馬子が、蘇我稲目のあとをついで大臣になり、50年ものあいだ政治に携わります。

このころ、朝鮮半島を通じて仏教が伝わってきます。

外国の文化を積極的に受け入れていた蘇我氏は仏教も取り入れようとしますが、物部氏は反対。

朝廷の祭りを担当していた中臣氏と手を結んで、蘇我氏を退けようとします。

 

用明天皇が亡くなると、天皇の跡継ぎをめぐって対立はさらに激化。

そして、587年。

ついに事件が起こります。

蘇我馬子が物部氏を攻めて滅ぼしてしまいました。

こうして、蘇我氏に対抗する豪族がいなくなると、蘇我馬子が一人で朝廷の政治を担当するようになっていきます。

 

政権を握った馬子。

仏教を信仰していたため、奈良県に寺院を建てました。

これが法興寺

飛鳥寺とも呼ばれ、中には飛鳥大仏があります。

馬子、天皇を殺す

物部氏を滅ぼした蘇我馬子。

さらに政治の進め方で対立した崇峻天皇を殺してしまいます。

このような状況の中、593年。

女性の天皇、推古天皇(すいこてんのう)が即位します。

推古天皇は、甥の聖徳太子を補佐役に任命し、摂政の位を与えます。

 

聖徳太子と蘇我馬子はともに協力して政治にあたります。

しかし、聖徳太子が622年に亡くなると、その4年後。

蘇我馬子も亡くなってしまいます。

馬子の墓は、奈良県明日香村にある石舞台古墳だと言われています。

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