福沢諭吉(明治時代)

Yukichi_Fukuzawa_1891

<出典:wikipedia

福沢諭吉 ふくざわ ゆきち (1834-1901)

 

1834年。

福沢諭吉は、中津藩(大分県)の武士の子として大阪で生まれました。

3歳のときに父が死んだので中津に帰りましたが、身分が低かったためかなり苦労したようです。

 

1854年。

ペリーが来航した次の年に、諭吉は蘭学を勉強するため長崎に留学します。

翌年。

大阪の適塾に入ると、緒方洪庵(おがたこうあん)のもとで本格的に蘭学を学び始ました。

そして、その3年後。

藩の命令で江戸に行き、中津藩の江戸屋敷の中に小さな蘭学塾を開きました。

 

江戸で蘭学を教えていた諭吉は、ある日、横浜の見物に行きました。

すると、まわりで話す人の言葉や看板がまったく読めません。

これにショックを受け、これからは英語の時代だと考えはじめます。

 

英語を学び始めた諭吉にチャンスが訪れます。

1869年。

幕府は日米修好通商条約の手続きのため、新見正興(しんみまさおき)をアメリカへ派遣。

諭吉は運よく一緒にアメリカへ渡れることとなりました。

 

アメリカへ行き、無事帰国した諭吉。

日本人で初めて『ウェブスター辞書』という有名な辞書を持ち帰ってきます。

また、帰国してからは塾の教育も英語に切り替えました。

 

1861年。

諭吉は、幕府のヨーロッパ使節団とともにヨーロッパに行きます。

そして、進んだ文明に触れて帰国した諭吉は、そのときのことを『西洋事情』としてまとめ、多くの人に読まれることになります。

『学問のすすめ』を出版

1867年。

軍艦の受け取りのため、再びアメリカへ行きます。

何度も欧米に行った諭吉は、
「日本はヨーロッパやアメリカに学び、追いつかなければいけない」
と強く感じました。

 

江戸幕府が倒れると、諭吉は新政府から招かれました

しかし、これを断り、塾の教育に力を注ぐようになります。

そして、1868年。

諭吉は蘭学塾を移して、慶應義塾と名を改めました。

 

本を書くことで、自由な立場から西洋の新しい思想を広めようとした諭吉。

1872年に『学問のすすめ』を出版します。

この本で、「人間の自由・平等、学問の大切さ」などを説き、大ベストセラーとなります。

 

その後も、『文明論之概略』など多くの本を書き、森有礼(もりありのり)らが結成した明六社(めいろくしゃ)にも参加。

新しい思想の普及につとめます。

 

そして、1901年。

活発な言論活動を行った諭吉は、病気で亡くなりました。

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