武田信玄(戦国時代)

Takeda_Harunobu

<出典:wikipedia

武田信玄 たけだしんげん(1521~1573)

 

1521年。

武田信玄は山梨県で武田家の子として誕生します。

ときは各地で戦いが続く、戦国時代の真っただ中。

武田家は、甲斐(かい)の守護を務めていましたが、父である信虎のときに戦国大名へと成長しました。

 

信虎の政治は厳しく、評判が悪かったため、人々の信頼を失っていました。

しかし反対に、武田信玄は多くの家来の信頼を集めていました。

1541年。

信玄は家来たちの意見を聞いたうえで、父を追放。

甲斐の国を支配することとなります。

 

当時、争いが各地で起きていたため、どこの国でも城を作って敵を防いでいました。

しかし、城を作りませんでした。

「人は城、人は石垣、人は堀」といって、「人々の団結こそ城に勝る城」だと考えたのです。

また、信玄は「人々の生活をラクにすることこそ国を守ること」だと考え、産業の発達にも注力。

洪水を防ぐための堤防を作ったり、金山を開発したり、紙などの特産品の生産をすすめるなどしました。

 

信玄は他の地域と同じように、甲斐の国を治めるための分国法「甲州法度之次第」も定めました。

ここには、喧嘩両成敗などの内容が書かれています。

天下統一を目指す

信玄は「風林火山」の旗を掲げて各地で戦いを繰り広げます。

『孫子』を熟読していた信玄は、

・疾きこと風の如し
・静かなること林の如し
・侵略すること火の如し
・動かざること山の如し

といって快進撃を続けます。

 

天下統一を目指しはじめると、まず北へ。

長野県の信濃国を攻めます。

次に新潟県の越後国。

上杉謙信と戦います。

 

信濃国をめぐっては1553年以来、上杉謙信と何度も戦うことになります。

この間、信玄は駿河国の今川義元と結び、後ろから攻められないようにしていました。

しかし、結局、上杉謙信との戦いは決着がつきませんでした。

 

天下統一を目指した武田信玄。

各地の大名と協力して、織田信長を包囲する計画を立てます。

1572年。

静岡県の三方原で信長に協力した徳川家康を撃破。

そのまま、天下統一を果たすかと思いきや、翌年病気で倒れてしまい、天下統一を果たせませんでした。

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