榎本武揚(明治時代)

Takeaki_Enomoto

<出典:wikipedia

榎本武揚 えのもと たけあき (1836~1908)

 

1836年。

榎本武揚は、旗本の子どもとして江戸で生まれました。

小さいころは幕府の昌平坂学問所で学び、その後、アメリカから帰国した中浜万次郎の塾で学びました。

1856年。

海軍伝習所に入り、勝海舟(かつかいしゅう)やオランダ人宣教師の指導を受けました。

2年後。

江戸にもどった榎本は、幕府海軍の指導者を養成する海軍操練所で教えることとなります。

 

1862年。

幕府は軍艦開陽丸(かいようまる)をオランダに注文。

榎本は、建造の監督を兼ねてオランダ留学を命じられます。

留学中、航海術・造船術・砲術などのほか法律も学んだ榎本は、1867年に完成した開陽丸に乗って江戸にもどってきます。

そして、海軍副総裁となり、幕府海軍の中心となって活躍しました。

戊辰戦争!五稜郭に立てこもる

1868年。

戊辰戦争が勃発。

旧幕府軍と新政府軍が戦いをはじめます。

鳥羽・伏見の戦いで勝利した新政府軍はそのまま江戸に攻めあがると、旧幕府は江戸城を明け渡します。

新政府軍は江戸城の明け渡しと一緒に、幕府の軍艦の引き渡しも要求。

しかし、最後まで戦うことを主張していた榎本はコレを断ります。

軍艦8隻を率いて品川沖を脱出すると、北海道に新しい政府を作ろうと考えます。

新政府を作るには優秀な人材が必要。

そこで榎本は、途中で大鳥圭介土方歳三(ひじかたとしぞう)を軍艦に乗せて、北海道に入りました。

 

北海道には日本最初の西洋式のお城「五稜郭(ごりょうかく)がありました。

榎本はコレを攻め落とすと、蝦夷島政府設立を宣言。

投票によって榎本が総裁となります。

 

1869年。

五稜郭に立てこもった榎本軍に対し、新政府が大軍を送ってきます。

榎本軍はこれに敗れ、降伏。

旧幕府軍と新政府軍の戦いが決着を迎えます。

 

新政府に招かれる

戦争に敗けて捕えられた榎本。

新政府内では処刑すべきだという意見がかなりありました。

しかし、新政府にいた黒田清隆(きよたか)は、榎本が優れた人物で新政府の力になることを知っていました。

そのため、黒田は榎本を助けるために運動を起こします。

その結果、榎本は3年間の獄中生活するだけで済みました。

 

1872年。

獄中生活を終えた榎本は新政府の役人となり、黒田のもとで北海道の調査を始めます。

さらに、海軍中将&公使としてロシア公使館に勤務することになります。

1875年。

ロシアで樺太・千島交換の条約に調印。

その後、新政府の中枢に戻ると、様々な大臣を務めました。

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