平清盛(平安時代)

Taira_no_Kiyomori,

<出典:wikipedia

平清盛(たいらのきよもり) 1118年~1181年

 

1118年。

平清盛は、平忠盛の子とし誕生しました。

父の忠盛は、瀬戸内海の海賊を平定。

鳥羽上皇から信頼が厚く、重用されていました。

 

平清盛も父と同じように海賊平定に活躍。

早いうちから朝廷で高い位をもらいます。

1153年。

父が亡くなると、平氏のトップとして一族をまとめることになります。

 

このころ朝廷では、後白河天皇(ごしらかわてんのう)と崇徳天皇(すとくてんのう)が対立。

1156年に鳥羽法皇が亡くなると、政治の実権をめぐって争いが起きます。(保元の乱)

この争いに藤原氏や源氏、平氏もまきこまれていきます。

 

平清盛は源義朝(よしとも)とともに後白河天皇の味方に!

見事、勝利をおさめ平清盛は高い地位を獲得します。

しかし、源義朝は平清盛よりも活躍したのに、恩賞が少なくなかなか出世もしませんでした。

 

1159年。

不満を高めた源義朝は、平清盛が京都を離れているスキをついて挙兵!

この知らせを聞いた清盛は、後白河上皇を救いだし源義朝を倒します。

これにより、清盛の権力はさらに大きくなりました。

 

朝廷での高い位につき、上級貴族の仲間入りした平清盛。

つぎつぎと昇進を重ね、1167年。

ついに武士ではじめて太政大臣になります。

朝廷で最高の地位に就いた清盛により、平氏一族もつぎつぎと高い位につくようになりました。

貴族政治を始めた武士 平清盛

京都の六波羅に屋敷をかまえた平清盛。

やがて、むすめの徳子を高倉天皇の后にします。

徳子が天皇の子を産むと、清盛はわずか2歳の皇子を安徳天皇として即位させます。

政治に口出しできるようになり、さらに権力を拡大。

平氏一族は、全国60ヶ国のうち30ヶ国を支配し、私有地も500以上持つようになります。

 

平清盛の父、忠盛は中国(宋)との貿易も行っていました。

清盛もそれを引き継ぎ、神戸港の修理や瀬戸内海航路の安全確保に力を注ぎます。

また、航海を守る厳島神社をあつく信仰しました。

 

藤原氏と同じような政治を行って勢力を伸ばした平氏。

これに対し、武士や貴族が不満を溜め込みます。

そして、平氏打倒計画が何度も実行されます。

打倒平氏の動きが激しくなっていくなか、1181年。

平清盛は熱病で亡くなりました。

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