戦国時代|1571年 比叡山焼き討ち

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京都では松永久秀や三好長逸(みよしながやす)が第十三代将軍の足利義輝(義輝)を暗殺し、義栄(よしひで)を将軍にしようとします。

これに対し、幕臣の細川藤孝(ふじたか)は僧侶になっていた義輝の弟である義昭(よしあき)を俗世に戻して後継者にたてます。

 

織田信長は明智光秀の仲介で接近してきた義昭を第15代将軍にすると、これを機に京都に上り10日ほどで畿内をほとんど平定してしまいます。

義昭は信長に利用されていることに気づき、比叡山や浅井長政などに協力を要請。

信長包囲網を作ります。

しかし、浅井長政を破った織田信長はその後、義昭を京都から追放。

こうして、室町幕府滅亡します。

織田信長に敵対する本願寺・延暦寺

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1570年。

三好長逸の残党が四国にいて、大阪の石山本願寺と連合して織田信長と敵対します。

さらに、近江の浅井長政、越前の朝倉義景の連合軍が京都に入り比叡山延暦寺に立てこもります。

信長は比叡山に対し、浅井・朝倉両者の引き渡しを要求。

しかし、比叡山は断固として拒絶します。

そのうち、六角義賢(ろっかくよしかた)が兵をあげ、本願寺徒衆が近江の通路を塞ぎます。

本拠地の尾張との交通を断たれた信長。

伊勢長嶋一向一揆で弟も自害してしまい、非常に危険な状態に追い込まれます。

そこで信長は正親町天皇(おおぎまちてんのう)に勅命を請い、浅井・朝倉・本願寺といったん講和を結びます。

 

1571年。

危機を脱した信長は、こんどは浅井長政の居城を攻め、次いで比叡山の建物を全て焼き払います。

比叡山の焼き討ちに対しては現在でも賛否両論ありますが、新井白石は『読史余論(とくしよろん)』で「比叡山の凶悪を取り除いたのは大きな功績だった」と語っています。

 

1573年。

信長は浅井・朝倉を討ちますが、一向宗徒が信長に下った朝倉一族を滅ぼし越前を占領します。

これに対し信長は、大軍を送って徹底的な殺戮を行います。

この戦いで一揆衆1万2千人以上が殺されたといいます。