平安時代|1167年 平清盛が太政大臣になる

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「平治の乱」で勝利した平清盛はその後勢力を拡大し、ついには太政大臣にまで登りつめます。

清盛は自分の娘の徳子を高倉天皇の后にすると、二人の間に安徳天皇が生まれます。

 

保元の乱も平治の乱も皇室が武士を使って起こした戦争でした。

武士の系図を辿れば、桓武天皇や清和天皇に至るのですが、地方に下ってから長い期間が経過していたので、宮廷からはガードマン程度にしか見られていなかったのです。

 

源氏は蝦夷征伐のときに関東に勢力を伸ばしました。

それに対し、平氏は瀬戸内海の海賊退治などで関西に勢力を伸ばします。

しかし、依然として公家からは見下される存在でした。

ところが、戦争となれば話は変わってきます。

争いの中では武力がものをいいます。

保元の乱によって武士が活躍し、源義朝と平清盛が力を得ることになります。

平治の乱以後は、清盛は武士として初めて太政大臣になり、天皇の外祖父になります。

そのさまは、藤原氏のようでもありました。

武力と血統でのし上がった平清盛

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平清盛がこれほど出世できたのには武力以外の要因もありました。

清盛は当時、祇園女御という白河天皇の寵姫との落とし子であるという説が流れていました。

最近の研究では、祇園女御が預かっていた妹の子どもだったのが間違われたという説もありますが、当時は天皇の血筋ということで貴族たちも清盛の出世をとめられませんでした。

 

ちなみに、のちの豊臣秀吉は、自らを天皇のご落胤であると語っていますが、これは清盛の例をマネたのでしょう。

 

平清盛は武家として政治の実権を握りながら、天皇家と親戚関係になり、徐々に平氏は公家と同じようになっていきます。

この時期、清盛の継室である時子の弟が「平家に非ざれば人に非ず」というほど、平家は栄華を極めます。

 

1180年6月。

清盛は突然、孫の安徳天皇を奉じて神戸市に都を移します。

宋との貿易を考えていたためという説もありますが、これには公家、平氏一門、源氏などが反発します。

こうして、半年足らずで都を京都に戻すことになります。

 

その後、清盛は熱病で急死。

やがて平家は源氏により滅ぼされてしまいます。

朝廷に対して権力をふるいすぎた天罰だとも言われましたが、捕らえた源頼朝を生かしておいたのが命取りになるという結果に終わります。

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