高野長英(江戸時代)

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<出典:wikipedia

高野長英 たかのちょうえい (1804-1850)

 

1804年。

高野長英は水沢藩(岩手県)の武士の子として誕生。

小さいとき父が死んだため医者だった叔父の養子となりました。

 

17歳の時。

長英は叔父の反対を押し切り、江戸に出て医学蘭学を学びます。

やがて、長崎に行きシーボルトが開いた鳴滝塾に入学。

長英の学力は素晴らしく、入学翌年にドクトルの称号が与えられました。

その後も長英は、長崎で研究を進めます。

しかし、1828年。

シーボルト事件が発生。

帰国しようとしたシーボルトが、持ち出し禁止の日本地図を入手。

これがバレて、国外に追放されます。

これに協力したとされる高橋景保は処罰され、高野長明は逮捕を逃れるため姿をくらましました。

 

1830年。

シーボルト事件のほとぼりも冷めてきたため、長英は江戸にもどって医者になります。

また、仕事のかたわら蘭学の勉強も進めました。

オランダの本の翻訳や、飢饉用の食べものの本の出版、病気予防の本の出版などもしました。

 

長英は、三河国(愛知県)の渡辺崋山らと、蘭学者を中心とした研究会も開催。

政治や海外の様子などを話し合いました。

この会には、鳴滝塾で共に学んだ小関三英や、幕府に仕えている江川太郎左衛門もいました。

幕府の鎖国政策を批判して捕まる

1837年。

漂流した日本人を送ってきたアメリカ商船のモリソン号が、「異国船打ち払い令」によって砲撃されます。

これを知った長英は『戊戌夢物語(ぼじゅつゆめものがたり)を書き、幕府の鎖国政策を批判。

幕府は、この書籍を理由に長英を捕えると、研究会の他の蘭学者まで捕えてしまいます。(蛮社の獄)

 

牢屋に入って6年目。

長英は牢屋番にお金を渡して放火させます。

そして、火事で混乱したところを、牢から逃げ出しました。

 

指名手配された長英は、ひそかに故郷の水沢に戻り、四国から九州にまで逃げていきます。

1849年。

長英は役人の目をごまかすため、顔を焼いて人相を変更。

再び江戸にもどります。

 

江戸にもどった長英は、名前を沢三伯(さわさんぱく)と変え、医者を開業します。

シーボルトに直接教わっていた長英の腕は抜群で、すぐに評判に!!

しかし、この評判が幕府の耳に入ると、役人が密かに調査を開始します。

同じころ、偶然にも長英はかつて牢で知り合った男に会ってしまいます。

この男に密告され、長英は役人に自宅を囲まれます。

役人に囲まれた長英は、太刀でノドをつき自殺しました。

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