足利尊氏(室町時代)

Ashikaga_Takauji_Jōdo-ji

<出典:wikipedia

足利尊氏  あしかがたかうじ (1305~1358)

 

1305年。

足利尊氏は栃木県で足利家の子として生まれました。

足利家は、源義家の孫からはじまる名門。

北条氏とも親戚関係を結んでいて、鎌倉幕府の中でも有力な御家人でした。

 

1333年。

後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒すために隠岐島(おきのしま)を抜け出すと、幕府は反乱を平定するために足利尊氏を出陣させます。

しかし、尊氏は途中で天皇側につくことを決意。

幕府を裏切って京都の六波羅探題を攻め落とします。

同時に幕府の有力御家人であった新田義貞が鎌倉に攻め込むと、北条氏を滅ぼし鎌倉幕府を倒しました。

 

足利尊氏たちの力を借りて幕府を倒した後醍醐天皇。

朝廷中心の政治を開始します。

このとき尊氏は第一の功労者として、後醍醐天皇から”名”をもらい高氏から尊氏に名を改めました。

しかし、倒幕の際に活躍した武士には恩賞が少なく、武士に不満が溜まってしまいます。

 

1335年。

北条氏の一族が関東で兵をあげる事件が起こります。

足利尊氏はこれを平定しますが、武士たちの不満が爆発。

後醍醐天皇に不満を持った武士たちにおされ、足利尊氏は新政府を倒す決意をします。

 

鎌倉で挙兵した足利尊氏。

後醍醐天皇が新田義貞を差し向けてきます。

尊氏はこれを破ると、そのまま京都へ攻めていきます。

しかし、新政府軍に敗けて九州へ逃げることになります。

 

2ヶ月後。

尊氏は再び京都に攻めのぼります。

兵庫の湊川で楠木正成の軍を破り京都へ入ると、後醍醐天皇は比叡山へと逃げていき、新政府を倒すことに成功します。

室町幕府を開く

1336年。

京都に入った尊氏は、新しく光明天皇を立てました。

しかし、京都を抜け出した後醍醐天皇が奈良県の吉野に朝廷を作ってしまいます。

そのため、尊氏のいる京都の北朝と、後醍醐天皇のいる奈良の南朝の2つの朝廷ができてしまいました。

 

1338年。

足利尊氏は北朝から征夷大将軍に任命され、室町幕府を設立。

1339年。

吉野の後醍醐天皇が亡くなったため、尊氏は天皇の霊を慰めるために天竜寺を建設。

その後、弟の足利直義(ただよし)と力を合わせて政治に取り組みます。

しかし、次第に政治方針をめぐって対立。

この対立が周りを巻き込み、勢力争いとなってしまいます。

1352年。

足利尊氏は弟の直義を毒殺。

これにより、争いは静まりました。

そして、1358年。

足利尊氏は病気により息を引き取りました。

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