平和な世の中の豪傑、平山行蔵

<出典:wikipedia

はじめに

江戸幕府はができて250年以上もの間。

大きな戦闘が起こりませんでした。

そこで、もともと戦うのが仕事だった武士はどうしたか。

必須修得技術の筆頭に各種の武術を習得し、脈々とあらゆる武技が修練されてきました。

 

武士のなかでも特に武術に秀でた者は、その技術の教授を通して自身の流派や道場を開き、ある種の影響力をもつようになります。

江戸時代には多くの達人たちが生まれましたが、中には「生まれる時代を間違えた」とまで評される、乱世型の豪傑も存在しました。

中でも代表が平山行蔵(ひらやまこうぞう)です。

そんな平和な時代に生まれてしまった豪傑、平山行蔵についてお知らせしたいと思います。

平山行蔵とは

平山行蔵は1759年(宝暦9年)に御家人である平山甚五左衛門の子として生まれました。

(あざな)は「子龍(しりゅう)」が有名で、伊賀組同心という身分で下級の武士ではありましたが、自宅には武道場を設けて武術家としての活動をしていました。

学んだ武術流派としては剣術の「真貫流」がよく知られ、やがて自身の流派である「忠孝真貫流(後に講武実用流と改称)」を開きます。

また、当時の武士の習い通り柔術・槍術・砲術・弓術・馬術・泳法等々のあらゆる武術を学び、学問も儒学から軍学、さらには土木学や農政学までも修めるという文武の人でもありました。

武芸百般、博覧強記、文武両道の体現者

行蔵は当時すでに形骸化しつつあった、本来あるべき戦士としての武士の姿を生涯にわたって体現した人物でした。

早朝には庭に出て武術の稽古を開始し、長尺の棒を的に打ち付けたり、鍛錬用の長大な重量刀を抜いたりと、すさまじいまでの鍛錬を続けていました。

近隣の住民は毎朝正確に始まる行蔵の鍛錬がたてる大きな音で、時間を知ったとまでいわれています。

自宅道場には道場破りを歓迎する旨の添え書きがされ、あらゆる武器や武道具類が所狭しと積み上げられていたといいます。

また、総数3000部近くにも及ぶ和漢の書物を読破し、単なる武辺者ではなく学問にも精通した識者としても知られていたのです。

生まれる時代が違っていれば・・・。太平の世の豪傑

行蔵はなんと61歳になるまで夜具を用いることなく土間で眠り、時には有事の際を想定した訓練として甲冑を着用したまま就寝することもあったそうです。

戦うことを忘れつつある武士の姿に警鐘を鳴らし続けましたが、その人柄は多くの人に愛されて1829年(文政11年)、70年の天寿を全うしました。

贅沢とは無縁ながらも生涯酒を愛し、押入れには四斗樽を欠かさなかったといいます。

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