大隈重信(明治時代)

Shigenobu_Okum

<出典:wikipedia

大隈重信 おおくましげのぶ (1838-1922)

 

1838年。

大隈重信は肥前藩(佐賀県)の武士の子として誕生。

藩校弘道館(はんこうこうどうかん)や長崎で、外国人から英語や法律を学び知識を広げました。

 

新政府が設立すると、大隈は語学力を生かして外国との交渉に当たります。

大隈の実力が大久保利通に認められると、政府の財政を担当する重要な役職に抜擢。

その後、通信設備を整えたり鉄道を建設するなどして、日本の産業発展に大きく貢献します。

 

西南戦争では、武器などの必要なものをそろえ、その輸送などで力を発揮。

さらに地租改正などの改革なども行います。

 

1880年ころ。

国会開設を求める自由民権運動が盛んになります。

これを受け、大隈はただちに国会を開くことを主張。

加えて、開拓使の財産を薩摩藩出身の商人に安く売ることに反対します。

これにより、薩摩と長州を代表する伊藤博文と対立し、1881年に政府から追放されてしまいます。

 

1882年。

政府を追放された大隈は、イギリス流の議会政治を目指して立憲改進党を結成。

民権運動に加わります。

しかし、政府の弾圧や党内での対立が生まれたため、大隈は解党を主張し、3年で党を離れました。

日本で最初の政党内閣

当時は、西洋の法律や政治に詳しいことが、出世の近道でした。

そのため、学問を学ぶ青年が多く、大隈は教育によって理想を実現しようと考えます。

そこで、開かれたのが現在の早稲田大学(東京専門学校)でした。

 

1888年。

大隈はふたたび政府に迎え入れられ、外務大臣となります。

このころは江戸時代に結んでしまった不平等条約の改正が大きな課題で、大隈は最高裁判所のみに外国人裁判官を用いることを条件に、改正を行おうとします。

しかし、これに反対する暴漢が爆弾を投げてきました!!

大隈は右足を失う重症。

大臣を辞任することとなってしまいます。

 

一度、政治から離れた大隈。

10年後に板垣退助と協力して、憲政党をつくります。

大隈はこのときの内閣の総理大臣に!!

陸海軍以外の大臣を、全て政党員から選びます。

これが、日本で最初の政党内閣でした。

しかし、内部争いによって、わずか4ヶ月で分裂。

内閣は倒れてしまいます。

 

1914年。

大正時代に入って、大隈は再び内閣を組織します。

その後すぐ、ヨーロッパで第一次世界大戦がはじまると、日英同盟を理由に参戦。

中国に「二十一カ条の要求」をつきつけ、勢力を伸ばします。

 

1916年に政界から引退した大隈は、その6年後にこの世を去りました。

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