吉田茂(昭和時代)

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<出典:wikipedia

吉田茂 -よしだ しげる- (1878-1967)

 

1878年。

吉田茂は、旧土佐藩(高知県)の武士、竹内綱の子として東京で生まれました。

父は自由民権運動で活躍し、自由党の幹部になっていました。

 

3歳のとき。

茂は、父の親友で横浜の貿易商の吉田家の養子となりました。

1906年。

吉田茂は東京大学を卒業すると、外務省に入り外交官に!

中国などに勤務した後、イタリアやイギリスの大使を務めます。

しかし、しばしば軍部と対立し、1939年。

外務省を辞めてしまいます。

 

吉田が外務省を辞めたころ、アメリカとの間で戦争の危機が迫っていました。

アメリカ・イギリスとの協調を説いていた吉田は、戦争が起こらないように動き回ります。

しかし、太平洋戦争がはじまってしまったため、今度は近衛文麿(このえふみまろ)に近づいて戦争を終わらせる努力をしました。

 

戦争に敗れると、マッカーサーを最高司令官とするGHQが日本を占領しました。

日本では敗戦直後に東久邇宮内閣が成立。

吉田は敗戦処理をするため外務大臣に迎え入れられ、GHQとの交渉をおこなうことになりました。

敗戦処理や新体制の形成

1946年。

女性も選挙権が与えられ、自由党が勝利しました。

しかし、総裁の鳩山一郎が戦争に協力したとして追放されたため、吉田が総裁となって政党内閣を組織しました。

総裁となった吉田茂は、GHQの指令により、憲法の改正や農地改革などの民主化政策を実施。

『日本国憲法』も施行されました。

 

1948年。

芦田均(あしだひとし)内閣が汚職事件で総辞職。

すると、ふたたび吉田内閣が成立します。

こうして、吉田茂は合計7年2ヶ月ものあいだ総理大臣として新しい日本を作るのに尽力しました。

 

1950年。

朝鮮戦争が勃発。

吉田はGHQの指令で警察予備隊(現在:自衛隊)を作りました。

一方、アメリカはソ連との関係が悪くなり、日本との関係を強めようとしていました。

1951年。

アメリカのサンフランシスコで講和会議が開かれます。

吉田は日本の代表として出席。

アメリカが講和を急いだこともあり、48か国との間でサンフランシスコ平和条約が締結されます。

こうして、日本はGHQの占領から解き放たれ、独立を取り戻します。

同時に日本は、日本の安全と東アジアの平和を守るために日米安全保障条約を結び、アメリカ軍への基地の提供と駐留を認めました。

 

やがて吉田の長期政権は飽きられてしまいます。

さらに側近の不正事件などが起こって批判が高まると、1945年。

吉田内閣は総辞職しました。

引退後も吉田は政府・自民党に強い影響力を持ち、1967年に亡くなったときは、戦後初の国葬が行われました。

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