原 敬(大正時代)

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<出典:wikipedia

原 敬 -はら たかし- (1856-1921)

 

1856年。

原敬は南部藩(岩手県)の家老の子として生まれました。

9歳の時に父が病死。

新政府軍と旧幕府軍の戦いで、南部藩は旧幕府側についたため、戦争に敗け原の家は衰えていました。

 

15歳ころ、東京に出てきた原。

フランス人の経営する神学校で学び、フランス語を教えてもらう約束で宣教師の活動についていきました。

新潟でキリスト教の伝道活動を終え、東京にもどった原は、1876年。

司法省法学校に入学し、法律の勉強を開始。

しかし、薩摩藩出身の校長を辞めさせる運動の中心者となったため、退学させられてしまいます。

 

退学となった原は「郵便報知新聞」の記者となり、フランスの新聞の翻訳などを行いました。

ついで「大東日報」に移りましたが、まもなく退社。

1882年。

外務省に入り、清(中国)やフランスに勤務するようになります。

この間、陸奥宗光にその力が認められましたが、陸奥が亡くなると原は外務省を辞めました。

 

外務省を辞めた原。

大阪毎日新聞社の編集責任者として迎え入れられます。

そして、翌年。

大阪毎日新聞社の社長となりました。

政治に参加。総理大臣になる

1900年。

伊藤博文が立憲政友会を結成すると、社長を辞めてこれに参加。

党の中心となって活躍します。

1902年。

選挙で岩手県盛岡市から立候補して当選し、内務大臣となります。

内務大臣になった原は、地方制度の改革に努め、政友会の勢力拡大に力を尽くしました。

 

1918年。

富山県の漁村におこった米騒動が全国に広がると、その責任を取って寺内正毅(てらうちまさたけ)内閣が総辞職。

これにより、政友会の総裁だった原が、内閣総理大臣となり政治のトップに立ちます。

原は、陸軍・海軍・外務以外の大臣をすべて政友会の中から選抜すると、本格的な政党内閣を組織。

また原は、薩長藩閥や公家出身ではなく、平民出身の最初の総理大臣だったため、国民の期待と人気を集めました。

 

総理大臣となった原は、地方に鉄道を通したり道路を新設するなどして、積極的に地方を開発。

しかし、普通選挙法案にたいしては消極的でした。

 

普通選挙法案を認めず、増税も行った原内閣。

これにより、国民の期待と人気はどんどん低下していきます。

こうしたなか1921年。

原は19歳の鉄道員に東京駅で刺されて亡くなりました。

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