知覧の地に生き続けた特攻の母 鳥濱トメ

<出典:wikipedia

鳥濱トメ(1902年~1992年)は、明るく気さくな女性で、鹿児島県の町の片隅で食堂を切り盛りしていました。

第二次世界大戦の終盤、彼女の富屋食堂には多くの特攻隊員が通い、トメは彼らに母親のように慕われました。

富屋食堂の開業

1902年、トメは18才で鳥濱義勇と結婚し、27歳の時に鹿児島県川辺郡知覧町でかき氷や丼物を出す「富屋食堂」を開業します。

1942年には、陸軍知覧飛行場の完成に伴い、富屋食堂が陸軍指定食堂となりました。

実家から遠く離れた知覧の地で飛行訓練に励んでいた少年たちは、トメのことを「お母さん」と慕って食堂に通い、立派な飛行兵となって戦地へと旅立って行きました。

トメの使命

1945年。

たくましく成長したかつての少年兵たちが、トメの食堂に会いに来ます。

20歳前後の青年となり、特攻隊員として知覧に戻ってきたのです。

特攻隊員の出撃については軍の機密。

隊員たちは自分たちの家族から隔絶され、手紙を書くことさえ禁じられていました。

明日にも死に行く特攻の青年たちを思い、トメは母親代わりになって優しく甘えさせます。

あれを食べたい、これを食べたいという隊員たちのために、持っていた家財道具や着物も売り払い、商売抜きで隊員たちに尽くしました。

話しを聞いてやったり、一緒に歌を歌ったり、店を貸し切りにして彼らと時間を過ごすこともありました。

それはトメの実の娘たちが焼きもちを妬くほどだったそうです。

 

一人、また一人と空に散っていく青年たちを知覧から見送り続けるトメ。

隊員たちが憲兵の検閲を避けるために突撃前にトメに託した家族への手紙を代理で投函し、時には、個々の隊員の出撃の様子を自ら綴った手紙も全国の家族のもとへと送り続けました。

特攻隊員とのエピソード

出撃していく特攻隊員一人一人にドラマがありました。

上原少尉は、トメに「日本は負けるよ。近いうちに」と言い、特攻隊員の「一撃轟沈・皇国必勝・悠久の大儀」といった遺書を書くことを拒否。

日本が負けることを知りつつ、将来の日本の自由と平和を願って出撃しました。

 

飛行学校で軍人精神の教官だった29歳の藤井中尉。

飛行機の操縦ができない彼でしたが、教え子たちだけを行かせられないと、血染めの志願書を軍に提出し、二人乗りの飛行機の後部座席に乗って突入していきました。

その前には夫に未練を残させないよう、妻が子供たちと共に入水自殺しています。

 

特攻突撃の前日が20歳の誕生日だった宮川軍曹。

トメの料理で誕生日を祝い、翌日の出撃のためのはなむけとしたその夜、空襲警報のために皆で入った防空壕で蛍を見つけます。

彼は、「明日の夜の今頃に蛍になって戻るから、店の引き戸を開けておいて欲しい、そして『同期の桜』を歌って欲しい」と言います。

翌日の夜。

わずかに空いた表戸の隙間から本当に一匹の蛍が現れます。

トメも娘たちも、居合わせた兵士たちも号泣しながら「同期の桜」を歌ったということです。

 

誰とも話さずおとなしい光山少尉は、明るく優しく接するトメに、自分が朝鮮人であることを告白します。

出撃前に訪れた食堂で、光山少尉は最後に祖国の歌「アリラン」を歌いました。

隊員たちの前では決して涙を見せなかったトメが、このときばかりは娘たちと共に泣き崩れたといいます。

戦争の終結

1945年。

日本は戦いに負け、戦争は終結します。

進駐軍の富屋食堂への出入りを固辞していたトメですが、富屋で行われた町主催の進駐軍の歓迎会がきっかけに、米軍兵士が富屋に出入りするようになりました。

面倒見のよいトメは、米軍兵士からも「ママさん」と親しまれたそうです。

1952年、トメは特攻隊員たちの憩いの場だった離れを買い取り、富屋旅館を開業。

隊員のご遺族や生き残られた方々が知覧を訪れたときに宿泊に困らないように、と考えてのことでした。

彼女は、旅館業の傍らこの離れで平和の語り部として、隊員とのエピソードなどを語っていたそうです。

1992年、鳥濱トメ死去。

享年89。

おわりに

トメはこう語っていました。

「笑って行った人など一人もいない。
愛する人と暮らしていたかった。
でも、もはや本土上陸目前だったから、愛する人を守るんだと、私にはっきり言ったよ」

そして、こうも書き残しています。

「善きことのみを念ぜよ。必ず善きことくる。命よりも大切なものがある。それは徳を貫くこと」と。