太平洋戦争の名将|高木武雄

太平洋戦争 高木武雄

<出典:wikipedia

高木武雄 たかぎたけお
(1892年~1944年)

 

1892年。

高木武雄は鉱泉宿「藤屋」の長男として誕生。

幼少期は身体が小さかったが、頭脳は明晰でした。

 

磐城中学を卒業後、海軍兵学校に入学。

海軍兵学校を卒業すると、翌年。

少尉に任官しています。

その後、大尉、少佐と出世していき、太平洋戦争がはじまると第5戦隊指令長官となり南方作戦に従事しました。

 

当時の日本は、ABCD包囲陣により重大な石油危機に見舞われていました。

そのため、植民地時代に油田開発をされたインドネシアは、喉から手が出るほど欲しい土地でした。

こうして、マレー半島を掌握した日本は、次の目標をインドネシアのジャワ島に定めます。

スラバヤ沖海戦

1942年2月27日。

ジャワ島攻略のために日本軍輸送戦団がスラバヤ西方に接近します。

すると、アメリカ・イギリス・オランダの連合艦隊が出現。

日本の輸送戦団護衛のために付近を航行していた第5戦隊は、すぐさま戦闘状態に入ります。

高木武雄は、味方艦船の射程距離が敵艦より長いことを利用。

敵艦の砲撃が届かないエリアからの砲撃戦を仕掛けます。

 

このときのことを第5戦隊砲術参謀だった末国正雄は以下のように語っています。

「第5戦隊がケガをしたら輸送船団が潰される。そのためアウトレンジ砲戦を採用した」

 

スラバヤ沖海戦で、高木武雄は日本軍の勝利に貢献。

また、敵国への人道的配慮も欠かしませんでした。

 

この戦いが終わってすぐ。

オランダの駆逐艦「ジャワ」の生存者が漂流しているのを発見します。

すると、漂流者の救助を命令。

後にこの行いを讃えられ、現在もアメリカのスミソニアン戦争博物館で表彰されています。

また、アメリカの戦史家ジョン・トーランドは「日本海軍には稀な合理主義的な提督」と言って高く評価しています。

 

珊瑚海海戦

1942年5月8日。

世界初の空母同士の対決が勃発。

高木武雄はこのとき、自軍戦力の消耗が激しいことを察し、第二次攻撃の命令を黙殺。

内地の連合艦隊司令部から叱咤されるも、意志を曲げませんでした。

 

また、日没後。

なかなか戻らない味方の航空機に目印となるよう、空母から探照灯を照射し続けました。

夜。
真っ暗な海上で空母を見つけるのは至難の業で、敵軍に見つかるのを覚悟でパイロットに光を示したのです。

サイパン島で散る

1943年6月。

高木武雄は第6艦隊司令長官に就任。

トラック島に配置されます。

ここは、後方輸送基地として重要な日本軍の一大拠点でした。

 

1944年2月。

アメリカからの大空襲を受けます。

これにより島は廃墟と化し、参謀は司令部を後方に下げるべきだと提案します。

しかし、高木武雄は前線での指揮をモットーにしていたため、なかなかその提案を受け入れませんでした。

 

1944年6月6日。

高木武雄はサイパン島に赴任。

ここでも陣頭指揮にこだわります。

 

着任から4日後。

アメリカによるサイパン島への猛烈な奇襲がはじまります。

6月15日。

アメリカ軍海兵隊が上陸。

日本軍は北部へ後退しながら抵抗を続けますが、やがて敵中に孤立してしまいます。

 

孤立した高木の部隊を救出するため、日本は潜水艦による救出作戦が敢行。

しかし、アメリカ軍の返り討ちにあいます。

こうした状況に、高木は自ら救出作戦の中止を発し、自害しました。