幼少の徳川家康。家庭教師は寺の住職だった!!

<出典:wikipedia

徳川家康(1543年~1616年)は、大変な読書家でした。
読書によって読み書き、和歌、歴史、理論としての兵法、地理、茶道などの嗜みや医学に至るまで、さまざまなことを学びました。

家康が教養を重んじたのは、家庭教師・太原崇孚(たいげんすうふ/1496年~1555年)が影響しています。
太原崇孚は禅僧で、またの名を雪斎(せっさい)といいます。

なぜ禅僧が武家の家庭教師に?

戦国時代。
武士たちは常に死と隣り合わせでした。
戦場ではいつでも死を迎える可能性がありましたし、仮に戦いに勝ったとしても因果応報を信じる彼らは、死者の祟りを恐れました。
強くたくましい武将たちも、心の安定をもたらすものが必要となり、信仰に頼ることになりました。

京では密教系の仏教が公家たちと深く繋がっていましたが、
鎌倉時代以降、地方から力をつけてきた武将たちには、後発の臨済宗や曹洞宗のような禅宗と強く結びつきがありました。
そのため当時「禅」を取り入れる武将達が多かったようです。

人質・家康に最高級の家庭教師

徳川家康は、幼少年時代の約14年間、今川義元の元で人質にされていました。
しかし、人質とはいっても家康は三河国の武将・松平広忠の息子であり、父親が亡くなって既に岡崎城主の身でした。
そこで今川義元は、家康に自分の子供と同じように教育を受けさせました。

家康につけられた家庭教師は、雪斎(太原崇孚)でした。
雪斎は、今川家で活躍していた臨済寺の住職。
禅僧であり、当時屈指の学者でした。

家康は、正統な中国の儒書『論語』『中庸』、史書『史記』『漢書』、兵法書『六韜』『三略』、日本の法律書『延喜式』、史書『吾妻鏡』など、多くのことを学びました。
家康が、生涯あらゆることを勉強し続け、文教(学問により人を教化すること)政策に務めたのは、
雪斎に学び、勉学の大切さを身に付けたからと言われています。
8歳から20歳を過ぎるころまで、もっとも柔軟で吸収力がある多感な時期に雪斎に学べるというのはは、なかなかの贅沢。
今川家が、いかに家康を大切に扱ったかが分かります。

ちなみに、静岡市内にある臨済寺には、家康が雪斎に学んだときの部屋やゆかりの品が今でも保存されています。