第21~25代天皇 雄略天皇~武烈天皇

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<出典:wikipedia

第21代天皇
 雄略天皇 ゆうりゃくてんのう
(418年~479年)

雄略天皇は允恭天皇の第五皇子。
第20代安康天皇の弟です。

雄略天皇は古代の天皇の中でも気性が荒く乱暴。
些細な罪で進化を処刑することも多く、『日本書紀』では「朝に見ゆるものは夕べに殺され、夕べに見ゆるものは朝に殺され」と、その恐怖政治ぶりが描かれています。
また、「天下そしりて大悪天皇ともうす」とも書かれています。

456年。
安康天皇が暗殺されると、雄略天皇はこれに乗じて行動開始。
八釣白彦皇子(やつりのしろひこのみこ)、境黒彦皇子(さかいのくろひこのみこ)、眉輪王(まよわのおおきみ)を3人まとめて焼き殺し、皇位継承のライバルである従弟を射殺しました。
競争相手を全て倒した雄略天皇は、無事、第21代天皇になりました。

このような暴君に対し、地方豪族が反乱しました。
しかし、これも全て鎮圧されてしまいました。

雄略天皇の時期は、ヤマト政権の勢力が強くなった時期でもありました。
雄略天皇は大臣・大連制や財政機構を整え、関東までヤマト政権の勢力が及びました。


第22代天皇
 清寧天皇 せいねいてんのう
(~484年)

雄略天皇の第三子。
生まれながらに白髪だったため、「白髪武広国押稚日本根子尊(しらかのたけひろくにおしわかわかやまとねこのみこと)」と名づけられました。

清寧天皇には皇后も実子もおらず、謎に包まれています。
子どものいなかった清寧天皇は、父の雄略天皇に殺害された市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)の遺児を探し出して、後継者としました。


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第23代天皇
 顕宗天皇 けんぞうてんのう
(450年~487年)

第21代雄略天皇によって父を殺された顕宗天皇。
その後、兄の仁賢とともに播磨へ逃れ、牛飼い・馬飼いのもとで暮らしていました。

しばらくして清寧天皇により都に戻ると、兄が皇位を譲ってくれたため、天皇に即位しました。
皇位についた顕宗天皇は、逃亡生活中に自分たちを苦しめた者を殺し、父の暗殺を助けた豪族の戸籍を剥奪しました。
また、雄略天皇の墓を破壊しようとしました。
しかし、これは兄の仁賢にいさめられて、思いとどまりました。

顕宗天皇は儒教的な仁に基づいた政治を行い、この時期は、豊作が続いたようです。

 


第24代天皇
 仁賢天皇 にんけんてんのう
(449年~498年)

弟の顕宗に天皇の座を譲った仁賢。
しかし、顕宗天皇は即位してわずか3年で亡くなってしまいました。
そのため、仁賢が天皇に即位しました。

仁賢天皇は、仇であるはずの雄略天皇の娘を妻として迎え入れました。
これは、正系の雄略の娘をめとることで、自分も正系の天皇になったことをアピールするためだったと考えられます。

仁賢天皇は佐伯造(さえきのみやつこ)を設置し、高句麗と貿易も行いました。

 


第25代天皇
 武烈天皇 ぶれつてんのう
(489年~506年)

武烈天皇は仁賢天皇の皇子とされているが、実在を疑問視する声もある天皇です。

『日本書紀』によると、「しきりに諸悪をなして一も善を修めなかった」ようで、残虐な天皇だとされています。
妊婦の腹を裂いて胎児を見たという話や、人の爪をはいで芋を掘らせたなどの悪事が載っています。
しかし、『古事記』には「皇后も御子もなく没した」と書かれているのみで、悪行については全く記載されていません。

実は武烈天皇のあと今までの天皇の系統が途絶え、遠い親戚にあたる継体天皇が天皇となっています。
なので『日本書紀』に書かれた悪行は、継体天皇を正当化するために捏造されたものだとも考えられます。