第57~58代天皇 陽成天皇~光孝天皇

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第57代天皇
 陽成天皇 ようぜいてんのう
(869年~949年)

陽成天皇は清和天皇の第一子。
母は藤原長良の娘の高子でした。
貞明親王という名で、幼いころから皇太子として育ちました。

866年に応天門が燃えて以降、都では相次いで火事が起こりました。
侍賢門扉、春宮庁院、淳和院、冷然院・・・。
876年には大極殿も燃えてしまいました。
この火事は数日間にわたって燃え続け、内裏にある小安殿や延休堂なども燃えてしまいました。

先代の清和天皇はこの火災に大きなショックを受け譲位。
わずか9歳の貞明親王(陽成天皇)に天皇の位を譲ってしまいました。

9歳で天皇となった陽成天皇。
当然、政治を自分でできないので、代わりに藤原基経(もとつね)が行いました。

摂政となった基経により、はじめは順調に政治が行われましたが、882年。
陽成天皇が元服すると、基経との関係が急激に悪化。
基経は何度も辞意を願いました。
しかし、天皇がこれを拒否。
すると基経は朝廷への出仕をやめてしまいました。

そんな中、内裏で天皇の乳母の子どもが殺されてしまいました。
犯人として噂されたのは陽成天皇。
これを機に天皇は譲位を決意し、それを基経に伝えました。


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第58代天皇
 光孝天皇 こうこうてんのう
(830年~887年)

光孝天皇は、仁明天皇の第三子で、母は藤原沢子(たくし)
名を時康(ときやす)といいました。

884年。
陽成天皇が退位すると藤原基経が後継者を選ぶことになりました。
基経はまず淳和天皇の子どもである恒貞親王に皇位継承を要請。
しかし恒貞親王は出家して長く、「俗世に戻る気はない」と断られました。

次に候補となったのが仁明天皇の子どもの時康親王でした。
このとき時康親王は55歳。
謙虚な人柄で知られていました。
また、時康親王は基経の従兄弟でもあり、基経にとって都合のいい人物でした。

こうして884年。
時康親王は即位し、光孝天皇となりました。

光孝天皇には、「天皇みずからが政治を行う」という考えがありませんでした。
そこで、太政大臣の藤原基経に政治を任せ、自らは宮廷行事に精を出しました。

また、光孝天皇には多くの子どもがいました。
そのため、即位に伴って29人の皇子・皇女を臣籍に降格することにしました。
皇子・皇女には源朝臣(みなもとのあそみ)の姓が与えられました。

887年。
天皇の病気が悪化したため、光孝天皇の子どもで臣籍に降っていた源定省(みなもとのさだみ)が後継者として選ばれました。
源定省は親王に復帰し皇太子となり、後継者問題が解決しました。