家康が頼りにした側室・阿茶局

<出典:wikipedia

武田氏の家臣・飯田直政の娘として生まれた女の子・須和。

彼女はのちに徳川家康の側室・阿茶局(あちゃのつぼね)として、徳川幕府に貢献することになります。

須和は一体、どのようにして徳川幕府を支えたのでしょうか?

失意の中の家康との出会い

須和は19歳で、神尾忠重と結婚しました。

二人の間には男の子・猪之助が生まれましたが、不運なことに、父親である忠重は戦で亡くなってしまいます。

そこで須和は、息子を連れて実家へと帰りますが、この頃の武田氏は敵対する相手もいて、決して安全とはいえません。

 

そんな中、須和は家康と出会います。

須和の夫・忠重に恩があった家康は、須和と猪之助を自分の城に連れていくことにします。

そして須和は家康の側室となり、阿茶局と名乗ることになります。

外交に活躍!大阪の陣の勝利は彼女のおかげ?

阿茶局は美しい女性でしたが、そればかりではありません。

彼女は、政治の面でも家康を大いに助けていました。

特に、大坂冬の陣では大活躍。

阿茶局は豊臣方との和睦のための使者として、鉄製の輿で大阪城へと入り、豊臣方の使者である常高院(淀殿の妹・初)と交渉。

休戦の約束を取りつけました。

しかもこのとき、阿茶局は、大坂城のお堀を埋めることにも頷かせました。

この取り決めから、家康はお堀すべてを埋めることに成功し、その後の夏の陣で勝利を収めることができました。

家康の死後

1616年に、家康が亡くなりました。

これをきっかけに、他の側室たちは全員が出家しました。

しかし、阿茶局は家康が亡くなる時に残した命に従い、出家しませんでした。

阿茶局は、2代目将軍・秀忠、3代目将軍・家光の上洛にも関わり、徳川幕府のために働きます。

家康の孫(秀忠の娘)・和子が入内する時には母親代わりに共に上洛し、和子が御水尾天皇との子どもを妊娠した時には和子の世話をしました。

 

秀忠が亡くなると、阿茶局はこれをきっかけに出家しました。

そして、それから5年後。

83歳でこの世を去りました。

 

優れた才能によって、徳川幕府を支えた阿茶局。

家康が頼りにしたのも頷けるほど、彼女が徳川幕府にもたらしたものは大きかったといっていいのではないでしょうか。