鎌倉時代の流れと文化・食事・服装を解説

鎌倉時代

太政大臣になった平清盛は朝廷内の重要な地位を独占。
貴族や武士、僧侶は不満を持ちました。

1180年。
不満を持った武士たちが全国各地で挙兵すると、源頼朝が中心となり平氏軍を破りました。
頼朝は平氏を倒したあと、鎌倉に戻って地盤固めに専念しました。

1184年正月。
平氏は再び政権を奪おうとしため、後白河法皇は源頼朝に平氏追討の命令を出しました。
そこで、頼朝の弟、義経が討伐に向かいました。
そして義経は平氏を壇ノ浦に追い詰め、見事に平氏を滅ぼしました。

源頼朝が全国を支配!鎌倉幕府を開く!!

<出典:wikipedia

平氏が滅亡すると、後白河法皇にとって次の脅威は源頼朝。
そこで、義経に対して頼朝討伐の命令を出しました。
しかし武士の多くが、頼朝こそが武士のリーダーにふさわしいと考え集結したため、義経は敗北。
天皇に力を見せつけた頼朝は、義経追討を名目にして各地を管理する“守護”や“地頭”の設置を認めさせました。
こうして、源頼朝は全国の支配権を獲得したのです。

後白河法皇の死後、源頼朝は朝廷から征夷大将軍の任命を受け、鎌倉幕府を開きました。
これにより、日本初の武士政権、鎌倉幕府が誕生しました。

鎌倉幕府の大きな特徴は、御恩と奉公による封建制度。
武士は天皇や幕府を警護したり、戦の時には命がけで戦って幕府のために尽くすことを約束。
武士の奉公に対して、幕府は御恩でこたえます。
地頭に任命して収入を増やしてあげたり、先祖伝来の土地所有権を認めてあげたり、手柄に応じて新たな領地を与えたりしました。

北条氏が政権を握る

源頼朝のこの世を去ると、長男の頼家が将軍に就任。
しかし、まだ18歳の頼家に幕府をまとめる力はなく、政治が乱れ幕府の武士たちは主導権争いをはじめました。

頭角を表したのは、頼家の祖父、北条氏でした。

北条氏は、頼家が病で倒れると弟の源実朝を3代目将軍にしました。
このとき実朝は12歳。
実朝の補佐を名目に北条氏が政治の実権を握りました。
そのあとも、代々、北条氏が政治の実権を掌握するようになりました。

次第に独裁色を強める北条氏。
これに不満を持つ武士が多いと感じた後鳥羽上皇は北条義時討伐の命令を下しました。
しかし、上皇の期待とは裏腹に、大多数の武士が幕府側につき敗北。
幕府側はこの戦いに勝ち、朝廷を監視するために六波羅探題を設置しました。

こうして、幕府の勢力は西国にまでおよび、朝廷に対して優位になりました。

元軍の侵攻と武士の不満

1274年。
朝鮮半島から約3万の元軍(中国軍)が九州に攻めてきました。
迎え撃つ武士たちは、集団戦法と火薬を使った飛び道具に大苦戦。
戦の初日は敗北を喫してしまいました。

その日の夕方。
元軍は夜襲を恐れ船に撤退。
しかし、ここで突然の暴風雨が吹き荒れました。
これにより、元軍は壊滅。 幕府は勝利しました。

1281年。
日本制圧をあきらめない元軍は、14万の大軍を率いて再び日本を襲いました。
しかし、今度は幕府もしっかりと守りを固めていたため、海岸の制圧に手こずります。
そんな中またも暴風雨発生。
元軍は壊滅状態に陥り、幕府が勝利しました。

さて、元軍侵略の危機を脱した幕府。
しかし、この戦で新たな土地を獲得できませんでした。
そのため、武士に十分な恩賞を与えられませんでした。

多額の戦争費用を出し、命がけで戦った武士は当然不満に思いました。
やがて、幕府に反抗する武士が登場し、打倒幕府の雰囲気が流れ始めました。
この流れを察知した後醍醐天皇は、足利尊氏や新田義貞などの武士の力を借りて鎌倉幕府を滅亡させました。

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