弓矢は飛距離70メートルでも命中した!那須与一の人物像。

<出典:wikipedia

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり……

べべんっと平家琵琶が鳴らされ、平家物語は800年にわたり語り継がれてきました。

盛者必衰のことわりをあらはすとはまさにこのことで、物語後半では源氏に追い詰められた平家が衰退していきます。

クライマックスへむけ、「一ノ谷の戦い」「屋島の戦い」「壇ノ浦の戦い」で盛り上がりをみせますが、とくに屋島の戦いにおける那須与一(なすのよいち)の活躍は、現在では伝説として語り継がれるほどです。

「揺れる小舟の上、扇の的を射よ」

源氏では弓矢の名手として知られた那須与一は、見事に扇の的を的中させました。

これには、味方である源氏の兵たちが盛り上がったのはもちろんですが、敵方であるはずの平氏でさえ感嘆したものです。

現在でも弓道やアーチェリーの経験者は、平家物語で語り継がれる那須与一の活躍を知っているようです。

一方で、矢島の戦いでの活躍がクローズアップされるものの、那須与一の人物像についてはあまり知られていません。

そこで今回は、日本史きっての弓矢の名手、那須与一をご紹介します。

弓矢の名手・那須与一と源義経の出会い

那須与一は、平安時代末期に誕生したといわれていますが、正確な生年月日はわかっていません。

平家物語や源平盛衰記など、当時の文献から推察すると、おおむね1166年から1169年頃に誕生したとみられます。

那須家の11男であったため、多分に漏れず「与一」と呼ばれていました。

当時は、「十余る一」という理由から、11男のことを与一と呼ぶことが一般的だったのです。

那須与一の本当の名前は「宗隆」

後に家督を継いでからは「資隆」と名乗るようになったといわれています。

 

那須与一は幼少期から弓術に秀で、自身もよく修練をしたため、左右の腕の長さが違っていたといいます。

1180年。

那須与一に転機が訪れます。

那須家の9人の兄たちが平氏に味方をしていましたが、那須温泉神社に参拝した源義経と出会い、10男の為隆とともに源氏に従うことになったのです。

伝説として語り継がれる屋島の戦い

現在の香川県高松市は、かつて屋島と呼ばれた地域でした。

1185年。

この地で源平の合戦と那須与一の伝説が生まれました。

盛者と称されていた平家が一ノ谷の合戦で大敗し、矢島を拠点に水軍を中心に軍備を整え起死回生を図ることにしました。

水軍で後れを取っていた源氏でしたが、熊野・伊予水軍を味方につけたことで奇襲をします。

平家は壇ノ浦沖へ小舟で逃げ出しました。

しかし、想像していたよりも源氏の兵力が少ないことがわかり、海上から弓矢で攻撃を開始します。

激しい戦いとなりましたが、やがて膠着状態となりました。

平家は挑発を仕掛けます。

小舟に設置した扇の的を射ってみよというのです。

最初は兄の為隆が候補に挙がりましたが、負傷していたことと本人が与一を推薦したため、やむなく扇の的を狙うことになりました。

もしも、的を外してしまった場合、腹をかき切って死ぬ覚悟だったといわれています。

那須与一は「南無八幡大菩薩」をとなえ、沖合で馬にまたがり弓を構えると、的を定めて矢を放ち――みごとに的中しました。

ちなみに、現在の研究では、那須与一の位置から的である扇までは70メートルほどあったと推定されています。

アーチェリーでの距離も70メートルですが、扇の的は揺れていますし、現在に比べ弓の性能も劣るので、よほど那須与一の腕がよかったということでしょう。

那須与一のその後とは?

扇の的を射落とした屋島の戦いでの功績が評価され、那須与一は源頼朝から荘園を賜りました。

また、与一の名前のとおり、11男であったのにも関わらず、那須家の家督を継ぎました。

那須家では11男の与一、10男の為隆を除く、9人の兄たちが平家に味方をしておりましたが、

那須与一によって放免され、それぞれに荘園を分け与え、各地で那須家が発展します。

平家物語で源義経と対立する、源頼朝に仕える軍師・梶原景時は、後に頼朝を言い含めて那須与一の領地を攻めますが、那須一族が得意とする弓矢の攻撃に敗退しました。

これは平家物語にはない後日譚ですが、読者としてはしてやったりと思わされるところです。

 

那須与一の最期は謎に包まれています。

家督を継ぐが20歳という若さで亡くなった、あるいは病気のため山城国の伏見で死去したなど、諸説あります。

扇の的を射落としたことで知られる那須与一は、歴史上の人物としては不鮮明と言わざるを得ません。

ですが、その伝説的な活躍ぶりから、平家琵琶の旋律とともに、現在まで語り継がれています。