「桜吹雪」じゃなく「生首」だった!遠山の金さんの入れ墨

遠山景元(とおやま かげもと/1793年~1855年)は、遠山金四郎景元と呼ばれた江戸時代の旗本です。
江戸の北町奉行、大目付、南町奉行を務めた人物で、テレビの時代劇でおなじみの「遠山の金さん」はこの人物がモデルでした。
金さんといえば、「この金さんの桜吹雪、見事散らせるもんなら散らしてみろぃ!」の啖呵とともにバッと片肌脱いで桜の入れ墨を見せつける、というのが定番ですね。
しかし、どうも実在する当人の入れ墨は桜吹雪ではなかったようなのです・・・。

金さんが彫り物をしたきっかけ

景元の父親は長崎奉行を務めた遠山景晋(かげくに)で、景元はその次男でした。
父親自身が遠山家の養子で、養父の実子を長男とし、本当は実子で長男の景元が次男の扱いとなったのです。
跡継ぎになれない複雑な家庭環境のせいで、青年景元は家を出て放蕩生活を送りました。
どうもその頃に若気の至りで任侠の世界に生きる人々と交わり、いたずら心もあって彫り物を入れたのではないかと推測されています。

入れ墨の図柄

遠山景元の子孫の方々は、彼が入れ墨をしていたことを否定しておられます。
江戸時代、武士が入れ墨をしていたことは問題であり、積極的に肯定する理由はありませんでした。
しかし、景元が入れ墨をしていたらしいことは、史料にも見られます。
景元の彫り物の絵柄は、時代劇に登場するような桜吹雪ではありません。
本当の絵柄は、口に絵巻物(もしくは手紙といわれる)をくわえて髪を振り乱した女性の生首だったのだとか。
グレた青年が入れそうな入れ墨ではあります・・・。

金さんは入れ墨を後悔していた!?

実は、景元は奉行時代にしきりに着物の袖を気にして、めくりあがるとすぐに降ろしてしまうクセがあったそうです。
当時、いわゆる罪人や悪人のシンボルのように考えられていた入れ墨は、奉行を務める人物には相応しくありませんでした。
おそらく彼は自分の入れ墨を後悔して、ひじまであった彫り物を隠していたのでしょう。
当時の日本では小さな彫り物はバカにされ、背中から肩、胸、腕にまで広がる「総彫り」スタイルが好まれていたそうですから、おそらく景元は腕にまで広がる彫り物を恥じ、隠そうとしていたのだと思われます。
ただし、これらは全て伝聞の記録によりますので、今は真偽の程を確かめる術もありません。

金さんの名裁きは本当?

「遠山の金さんシリーズ」などのテレビドラマで演じられるように、遠山景元が名裁きをした記録は残っていません。
ただし、当時から裁判上手だったという評判はあり、名裁判官としてのイメージを作った原因となる事実がありました。
1841年には景元が「公事上聴(くじじょうちょう)」という徳川将軍による裁判の上覧があった時に、将軍徳川家慶から裁判ぶりを激賞され、奉行の模範とまで讃えられました。

また景元が北町奉行に就任した頃、世の中は老中・水野忠邦(みずのただくに)による天保の改革の真っ最中でした。
厳しい改革は、町人たちの贅沢やお洒落、楽しみを奪うような禁令ばかり。
そんな法令に対して、景元はことごとく反対したといいます。
寄席や芝居などの興行さえも全面禁止を実行しようとした水野に対して、なんとか全面禁止を回避しようとする景元。
この辺りから庶民の娯楽を奪う憎き老中水野忠邦に対する正義の味方遠山景元、という構図が出来上がったのでしょう。
そして、老中水野忠邦への反対姿勢に感謝した芝居関係者が景元への感謝を込めて、遠山金四郎(景元)を正義のヒーローとした芝居を公演したのが現代の「遠山の金さん」ドラマに繋がりました。

遠山金四郎景元を主人公としたお芝居やドラマは一つ一つの作品はフィクションで、
桜吹雪ではなく生首の彫り物ではありますが、
彼が正義の味方となった根拠は確かにあったのです。