奈良時代|道鏡の政権支配

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聖武天皇と光明皇后の娘が、第46代孝謙天皇です。

権力をほしいままにしていた藤原不比等の孫でもあり曾孫でもある孝謙天皇が、聖武天皇あとに即位するのは当然でしたが、孝謙天皇には子供がいませんでした。

女帝というのは結婚しない女性か、天皇の未亡人に限られていますので、天皇の地位に就いた女性は子供を産めません。

しかたがないので、藤原仲麻呂が強く推す天武天皇の孫の、淳仁天皇にいったん天皇の座を譲位します。

 

しばらくすると、藤原氏と血縁関係がなかった淳仁天皇は、藤原仲麻呂が起こした反乱の責任を負わされて天皇の座を降りることになります。

その後、孝謙天皇が称徳天皇と名前を変えて再び即位します。

 

このころ、第41代持統天皇、第43代元明天皇、第44代元正天皇、第46代孝謙天皇と女性の天皇が多く現れていました。

しかし、女性が天皇になった時にはなぜか危機が起こりやすく、最大のものが孝謙上皇の時の「弓削道鏡(ゆげのどうきょう)」問題でした。

 

男女関係で取り入った道鏡

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淳仁天皇に皇位を譲り、退位した孝謙天皇は上皇になりますが、760年に孝明皇太后が亡くなり、翌年、上皇も病気になってしまいます。

このとき弓削氏出身の道教が祈祷を行い、病を治すことに成功します。

こうして、道鏡は宮廷に深く入り込み、上皇の寵愛を受けるようになります。

 

淳仁天皇はこの様子に危機感を抱き上皇をいさめようとしますが上皇は話を聞かず、関係が悪化。

孝謙上皇は天皇の実権を取り上げようとします。

 

ちょうどそのころ、孝明皇太后の後ろ盾をなくした藤原仲麻呂が挙兵します。

この反乱は無事に鎮められますが、反乱に関与したという言いがかりをつけられ淳仁天皇は追放されてしまいます。

こうして、上皇が称徳天皇として再び天皇の座につくことになります。

 

称徳天皇の寵愛を受けた道鏡の権力はますます強まり、ついに法王の称号を賜ります。

儀式は天皇に準ずるようになり、ついには道鏡を天皇にしようという動きまで出てきます。

道鏡を中心に一門の僧侶たちも政治に加わり、長年続いた日本の皇位正統に危機がおとずれます。

 

しかし、「道鏡を皇位につければ天下泰平になるであろう」という神託があったと道鏡自身から聞かされた称徳天皇はさすがに迷います。

そのため、臣下の和気清麻呂に命じてもう一度宇佐八幡の神託を受けに行かせます。

 

清麻呂にかかる2つの圧力

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当然、清麻呂には道鏡から賞罰の圧力がかかります。

と同時に、道鏡の支配を快く思わなかった藤原氏も清麻呂になにかしていたようです。

 

清麻呂が持ち帰った信託は以下のようなものでした。

「天つ日嗣は必ず皇儲を立てよ。無道の人は宜しく早に掃い除くべし」

つまり、「天皇となるものは皇孫でなければならない。道鏡を絶対に皇位につけてはならない」ということでした。

 

こうして、日本の皇位継承の伝統は守られました。