京都の面白い地名。「蹴上」の由来は源義経?

先斗町(ぽんとちょう)、物集女(もずめ)、化野(あだしの)

京都にはおもしろい地名が沢山あり、それぞれに歴史や由緒があります。

今回はその中の「蹴上(けあげ)」についてご紹介します。

蹴上は京都のどこに?

蹴上は東山区三条通の東端にあたります。

東山区と左京区の境界です。

京都市内から滋賀県大津市や、名神高速道路に向かう車が多く集まり、周辺には南禅寺などの観光スポットがあって、観光シーズンには結構な渋滞になってしまう場所でもあります。

この地が蹴上と呼ばれるようになったのには、2つの説があります。

名称の由来 その① 短気な義経

源義経が牛若丸と呼ばれていた頃、鞍馬寺で金売吉次(伝説上の人物の可能性あり)という商人に出会います。

1174年。

義経が彼の案内で奥州平泉へと向かう途中、一行は、山科の日ノ岡峠の日向(ひむかい)大神宮へ道中の安全祈願をするため立ち寄りました。

その後、日ノ岡峠の清水(現在の蹴上)で義経が供の者との別れを惜しんでいた時です。

平家の武者・関原輿市重治(せきはらよいちしげはる)と9人の従者が馬に乗って通りかかり、彼らの馬が、水溜りの水を義経に蹴りかけ、義経の衣服を汚してしまいます。

晴れの門出を台無しにされた義経は、無礼を詫びるように迫りますが、武者たちは平家の威光を笠に着て、かえって居丈高な態度に出ます。

そこから両者の争いとなり、ついには義経が興市の家来たち9人を斬り捨て、與市の耳と鼻を削いで追い払ったのです。

この、馬が水を蹴り上げたエピソードが蹴上の由来となりました。

 

ちなみに、後に自分の軽率を悔いた義経は、9体の石仏を作って彼らを弔います。

この地の近くに九体町と呼ばれていた地名もあったそうです。

結局石仏6体は消失しましたが、残り3体は現存しています。

京都の南禅寺南にある京都疎水のインクライン。

その船だまりのほとりにそのうちの一体「義経大日如来」とも「義経地蔵」とも呼ばれる石仏が祀られています。




名称の由来 その② 粟田口刑場

その昔、九条山には粟田口刑場という処刑場がありました。

粟田口は「京の七口」の一つで、東海道から京の町への入り口にあたる場所です。

このような大きな街道筋の町外れには刑場がよく置かれていました。

往来の多い道で刑を執行する見せしめの意味があったのです。

粟田口刑場は江戸時代よりも前から処刑場として使われており、天王山の戦いに敗れて殺された明智光秀の遺体が晒されたり、キリシタンが処刑された場所でもあります。

約1万5000人もの人が処刑されたといいます。

 

江戸時代には年3回公開処刑が実施されました。

処刑を拒み、山を登って刑場に向かうのを嫌がる罪人たちを、役人が後ろから蹴り上げて処刑場まで連れて行ったことから、蹴上という名前がついたと言われます。

ちなみに三条別れという場所があり、粟田口刑場で処刑される罪人を見送りにきたその家族はその先には進めず、そこで永遠の別れをしました。

 

二つある説のいずれも楽しい由来ではありませんが、それを単に嫌がるだけでは京の歴史を理解することはできません。

平安時代から江戸時代末期まで、京は都であり文化の花咲く土地であり、戦場だったのです。

地名ひとつひとつに興味深い由来があり、京都の歴史の一部となっています。

今回は蹴上でしたが、他の地名の由来や歴史を調べてみても面白いかもしれませんね。