太平洋戦争の名将|角田覚治

角田覚治

<出典:wikipedia

角田覚治 かくたかくじ
(1890年~1944年)

 

 

1890年。

角田覚治は新潟県の農家の三男として誕生。

1908年に海軍兵学校に入学します。

入学時の成績は150人中102位。

しかし、卒業時には148人中45位となっており、努力の様子がうかがえます。

 

角田は砲術を専攻しており、砲術の教官経験もありました。

しかし、1941年に航空へ転じ、太平洋戦争がはじまると第4航空戦隊司令官に任命されます。

 

ミンダナオ島襲撃

1941年12月8日。

ハワイの真珠湾に奇襲攻撃を仕掛けた日に、角田は南フィリピンのミンダナオ島にあるアメリカ軍飛行場への空襲を仕掛けます。

真珠湾攻撃に投入されていた空母6隻は、攻撃機を80機以上搭載できる大型船。

しかし、角田の作戦には攻撃機36機しか乗らない空母「龍驤」と、商船を改造した空母「春日丸」の2隻のみでした。

 

角田はより効果的に攻撃できるようにするため、できる限り目標に接近。

敵の基地に近づくほど危険が高まりますが、角田はなんと260kmまで近づきます。

真珠湾攻撃のときに南雲忠一が450kmの距離から攻撃機を発進させたことからも、これがいかに近いかが分かります。




南太平洋海戦

1942年10月26日。

角田は商船を改造した空母「隼鷹」を指揮し、主力部隊から少し離れたところを進みます。

すると、
「敵空母見ゆ」
の一報が入ります。

連絡を受けた角田は、全速力で敵軍のもとへ。

到着すると、主力部隊はすでに「瑞鶴」と「瑞鳳」が被弾していました。

そのため、全体を指揮していた南雲忠一は指揮権を角田に託します。

 

指揮権を得た角田は、すぐさま「隼鷹」でアメリカ艦隊のど真ん中に突入。

「自艦を激突させてでも敵艦を沈める」という思いで、戦闘を開始します。

そして、アメリカ空母「エンタープライズ」が大破!!

空母「ホーネット」は撃沈!!

角田は大きな戦果をあげます。

これにより、アメリカ軍は南太平洋で使える空母がゼロとなり、1942年10月26日はアメリカ軍にとって「史上最悪の海軍記念日」となりました。

 

テニアン島での奮闘

1944年。

すでに日本の敗北は濃厚。

そんな中、アメリカ海軍第2海兵部隊がテニアン島へ上陸を開始し、7月30日にはテニアン市街を占領します。

 

この直前に角田は、日本軍に協力してくれていた現地の人に感謝の言葉を伝え、こう述べました。

「みなさんは民間人ですから私たち軍人のように玉砕しなければいけないということはありません。」

 

そして、7月31日。

角田は

「今より全軍を率い突撃せんとす。機密書類の処置完了。之にて連絡を止む」

と電文を発して、敵陣に突撃。

手りゅう弾を抱えて玉砕したといいます。