血の手形が、足形が・・・。敗死した武士たちを祀る、血天井

京都市東山区の養源院を訪れると、血で染まった天井があることに気づきます。
手形や足形のようなものも確認できます。
なぜ、天井に血の跡がついているのでしょうか?
理由は、1600年関が原の戦いの前哨戦、伏見城の戦いにありました。

伏見城の戦い

1598年。
豊臣秀吉の死後、大老だった徳川家康は、会津征伐を決定します。
その理由は、上杉景勝(うえすぎかげかつ)が豊臣政権に対して反逆を企てたからです。
出陣する前に、家康は伏見城へ立ち寄りました。
その城を守る鳥居元忠は、家康が10歳の頃から仕えていた忠臣。
数々の戦功を挙げた武将でしたが、三方ヶ原の戦いで負傷して片足を悪くしていました。
不自由な足をひきずりながら家康を歓待する元忠に対して、家康は涙を流しました。
実は、家康は「おそらくもう生きた元忠とは会えないだろう」と予感していたのでした。

家康が会津に発てば、その留守を狙った石田三成が徳川方に戦を仕掛け、まず伏見城を襲ってくることを家康本人と元忠は予想していました。
会津に向かっていく家康のためにできる元忠の役割は、できるだけ伏見城を長くもたせて、三成の足を伏見にとどめることだったのです。
元忠に残された兵の数はたった1800。
家康の涙は、死を覚悟して家康のために働こうとする忠臣・鳥居元忠に感謝したものだったのです。

予想通り、石田三成は家康が発った後に反家康の立場を表明し、伏見城を4万の軍勢で襲いました。
簡単には落城しない強固な伏見城でしたが、鳥居元忠の元にあるのは1800と大坂城から移動してきた500の兵だけでした。

こうして血天井は作られた

奮戦の結果、10日余りを持ちこたえた伏見城でしたが、ついに落城。
最後まで残った鳥居元忠ら380余名の兵は、伏見城の「中の御殿」という場所に集まって、自刃しました。
その自害の現場は凄惨を極めたといいます。
床板にはその時に流れたおびただしい血が中まで染み付き、その後いくら洗っても、削っても、血の痕が消えることはありませんでした。
それを知った家康は、元忠をはじめ兵たちのための供養として、その床板を外し、「決して床に使ってはならぬ」と命じた上で、養源院などのいくつかのお寺の天井板として使わせました。

血天井のある場所

血天井が作られたのは主に寺院で,京都市東山区の養源院,北区の源光庵と正伝寺(しょうでんじ),左京区の宝泉院,右京区の天球院,宇治市の興聖寺(こうしょうじ),八幡市の神應寺(じんのうじ)などがあります。
養源院を訪れると、廊下の天井に血で染められた跡があるのが今でも確認できます。
天井を見上げ、目を凝らして見れば血の手形らしきものや、倒れた兵士の身体の輪郭を思わせるような血の痕などが分かります。

血まみれの板を天井に使用するなんて、ぞっとする人も多いでしょう。
しかし、これらの血天井には、悲しい歴史が刻まれており、死んでいった兵士たちへの供養という大事な意味があります。

私たちに親しみのある戦国武将たちは、ゲームや漫画で華々しい戦いを繰り広げるヒーローのような存在です。
しかし、実際彼らが生きた世界はどうだったでしょう?
「血天井」は、過去の戦の凄惨な場面を示すほんの一例にすぎません。