薄情者の藤堂高虎。死後に分かった秘密

 

主君を次々に変えたことで知られる戦国武将・藤堂高虎(とうどうたかとら/1556年―1630年)
城を作ることに長けた彼は、宇和島城・今治城・篠山城・津城・伊賀上野城・膳所(ぜぜ)城などを築城し、黒田官兵衛(如水)や加藤清正とともに城づくりの名人として知られた武将でもありました。

藤堂高虎は次々と主君を替えたことから薄情者とも言われます。
しかし、徳川家康臨終の際、外様大名として唯一その枕元にいることを許されています。

果たして高虎は信用ならない人物だったのでしょうか?
それともあの用心深い家康にさえ信頼される偉大な武将だったのでしょうか?

戦国武将・藤堂高虎

1556年、近江国犬上郡藤堂村。
藤堂高虎が次男として誕生した頃、藤堂家はほぼ農民と変わらない没落生活を送っていました。

1569年。
まだ13歳の高虎が手製の刀と竹槍で北近江の一揆衆の一人を討ち取り、浅井長政(あざいながまさ)から認められたのが彼の戦人生の始まりでした。高虎は姉川の戦いでも活躍し、阿閉貞征(あつじさだゆき)、磯野員昌(いそのかずまさ)、津田信澄(つだのぶずみ)と主君を変えて仕えました。
21歳で羽柴秀長に仕え、中国攻め、賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦い、紀州攻めを戦い抜き、文禄の役では水軍として朝鮮水軍相手に軍功を挙げました。

高虎は、一時出家しましたが、豊臣秀吉に乞われて還俗し、伊予宇和島の大名となりました。
秀吉亡き後は徳川家康に仕え、そこでも高く評価された彼は、今治20万3千石の大名となりました。
高虎は外様大名でしたが、譜代大名格として取り立てられ、徳川家康臨終の際には枕元にいることを許されたのでした。

ちなみに高虎は、戦功だけでなく、織田信長の安土城づくりで築城術を学んだ高虎は、高石垣と広い堀を特徴とした築城の名人となっていました。
宇和島城や伊賀上野城、水城の今治城などに腕をふるい、豊臣秀吉の聚楽第、徳川家康の江戸城大改修など政治の中枢となる城づくりの中心人物としても活躍しました。

死んで初めてわかった高虎のヒミツ

1630年。
高虎は眼病により失明してしまいます。
そして同年75歳で亡くなりました。

高虎の死後、遺体を清めた者は、その身体を見て驚きました。
彼の全身には隙間なく弾傷や槍傷があったのです。
手や足の爪ははがれ、数本の手指はちぎれて無く、節くれ立ってまめだらけの両手。
家臣たちは、身長六尺二寸(190cm)の大男で、素振りにも見せなかった高虎が、
ボロボロの満身創痍であったことを死後初めて知ったのでした。

主君を替え、戦国の世を渡り歩くことは武将としてその時代の一つの処世術でした。
次々と新しい主君に出会いながら、文学や能楽、茶の湯も広くたしなむ文化人だった高虎。
多くの主君を知る経験から、高虎は人情に厚く、家臣には寛大だったと言われています。
薄情というより、むしろ家臣を守るために賢く世を渡り歩いた高虎は、男らしい苦労人だったのではないでしょうか。