新選組の「魁先生」藤堂平助!伊勢津藩ご落胤説の真相は?

<出典:wikipedia

はじめに

文久3年4月16日。

京都守護職会津藩本陣・金戒光明寺の敷地内で、会津藩主松平容保主催の御前試合が行われていました。

この御前試合に参加していた壬生浪士たちの中でも、とりわけ周囲の目を引く組み合わせだったのが、第一試合の藤堂平助と土方歳三でした。

小柄ながら「いたって美男子のよし御座候」と記録がある藤堂平助。
対するは「あの仲間うちでも男っぷりもよい方である」と言われた土方歳三。

残念ながら、美男子ふたりの剣術試合の結果は残っていませんが、江戸にいた頃からの知り合いだった二人は、息の合った試合展開で周囲を沸かせたことでしょう。

 

この御前試合から4ヵ月後。

壬生浪士たちは「新選組」の隊名を与えられ、藤堂平助も副長助勤という役職に就きました。

藤堂平助は任務ではいつも先陣を切り、周囲から「魁先生」呼ばれるようになりました。

池田屋の事件でも、まっさきに斬り込んでいったのは藤原平助でした。

 

藤原平助はいくつかのエピソードが残されている一方、とても多くの謎に包まれている人物でもあります。

はたして、藤堂平助はどのような青年だったのか。

伊勢津藩ご落胤説と合わせて解説していきます。

池田屋に1番乗りで斬り込んだ藤堂平助とは?

新選組の幹部の多くは、多摩の豪農の出身であったり、松前藩浪人であったり、伊予松山藩の元中間であったりするなど、
新選組に参加するまでの経歴が、おおよそ明らかとなっています。

しかし、藤堂平助は天保4年(1844年)武蔵国ないし江戸で生まれ、北辰一刀流の玄武館で目録をということくらいしか分かっていません。

藤原平助について分かっているのは新撰組に入って以降。

近藤勇が江戸で経営していた剣術道場「試衛館」に出入りするようになり、試衛館メンバーとともに浪士組に参加し、新選組の旗揚げメンバーとなったところからです。

 

池田屋事件では、過激派志士たちの密会に、まっさきに斬り込んだ藤原平助。

この激闘で、藤堂平助は額に大きな傷を負い、壬生の屯所へ引き上げる時には担架で運ばれました。

このときの近藤勇の手紙の中には「藤堂の刀はささらのようになった」と書かれています。
また、幕府からの報奨金は、近藤勇、土方歳三についで、3番目に多いものでした。

このことから、藤堂平助の働きがどれほどのものだったかをうかがい知ることができます。

油小路の変で高台寺党のひとりとして散る

新選組の規模が拡大すると、藤堂平助は、江戸で北辰一刀流の道場を経営していた伊藤甲子太郎を勧誘。

伊藤甲子太郎の他、およそ7人が新選組に加入しました。

一説に、藤堂平助は玄武館ではなく、この伊藤甲子太郎の道場で北辰一刀流を学んだともいわれていますが、真偽のほどは定かではありません。

 

尊王攘夷の方向で一致していた伊藤甲子太郎と近藤勇。

しかし、もともと伊藤甲子太郎が勤王家であるのに対し、新選組は京都守護職御預かりとして佐幕色を強調するようになり、両者の間に軋轢が生まれてしまいました。

伊藤にとって江戸からの付き合いだった山南敬助が切腹したことも、処罰を命じた近藤勇、土方歳三への不信に繋がったのかもしれません。

1867年に伊藤甲子太郎は新選組を離脱。

藤堂平助も伊藤とともに新撰組を抜け、「御陵衛士」のメンバーに加わります。

しかし、御陵衛士結成の8カ月後、伊藤甲子太郎が新選組に暗殺されたことを発端に、御陵衛士と新選組が衝突した油小路の変で、藤堂平助は24歳で討ち死にしました。

藤堂平助の伊勢津藩ご落胤説の真相に迫る

新選組幹部を務めた永倉新八の記録には、藤堂平助について「御府内浪士・藤堂和泉の守落胤」と明記されています。

藤堂家が治める伊勢津藩は、32万石を誇る大藩です。

藩主・藤堂高猷の落胤が藤堂平助であると、新選組では認識されていたのです。

浪士という身分ながら、藤堂平助は藤堂家お抱えの鍛冶「上総介兼重」により打たれた刀を用いていたこと。
藤堂家功臣が名乗ることを許された「平助」という名を使っていたこと。
これらのことも、藤堂平助と伊勢津藩との接点を窺わせます。

また、糖度平助の伊勢津藩ご落胤説は、新選組内だけでなく、薩摩藩士にも知られていたことから、伊勢津藩のお家騒動にも発展しかねない重要事項にも関わらず、多くの人間がこのことを知っていたと考えられます。

仮にこれが藤堂平助が自ら偽った出自であったなら、とても無事で済まされるはずではありません。

しかし、藤堂平助が新選組隊士として名前が知られるようになっても、暗殺に遭ったなどという話がないことからも、ご落胤説にもそれなりの信憑性があるといえるでしょう。

現在でも多くの謎に包まれている藤堂平助ですが、「まるで白梅のようだ」といわれる立ち姿を想像すると、伊勢津藩のご落胤というのも相応しく思われます。