新選組初代局長筆頭・芹沢鴨は意外にも神官だった!

壬生寺(みぶでら)の境内からは「壬生のカンカンデン」とよばれる壬生狂言のお囃子(はやし)、子どもたちが遊んでいる笑い声、そしてときには壬生の地に屯所を持つ浪士組たちが調練する物騒な物音が、けたたましくも響いていました。

新選組初代局長筆頭・芹沢鴨(せりざわ かも)は壬生狂言を楽しんだり、子どもたちと遊んであげたり、もちろん壬生寺の境内で隊士たちに稽古をつけてやることもあったといいます。

とはいうものの、浪士組に屯所を提供していた八木家の人たちは、「……お酒さえ飲まはれなかったら」と口をそろえて言ったものです。

 

芹沢鴨は、大河ドラマや時代小説、あるいは新選組を題材にしたコミックなどでは、おおかた蛮行を繰り返したせいで、新選組副長・土方歳三をはじめ試衛館の一派によって暗殺されたと知られています。

そのため、実は芹沢鴨の前職が神官であったこと、水戸藩という尊王攘夷のおひざもとで教育を受けたため、高い教養を兼ね備えていたことは、ほとんど知られてはいません。

今回は、新選組初代局長筆頭・芹沢鴨について解説します。

新選組初代局長筆頭・芹沢鴨

新選組初代局長筆頭として取り扱われることが多い芹沢鴨ですが、芹沢鴨が存命中は会津藩より新選組の隊名を拝命していなかったため、「壬生浪士組局長筆頭」という身分が正しいのかもしれません。

当時、江戸で募集された浪士組は、将軍・徳川家茂上洛に先駆け、京都の治安維持をすることを目的とされたものでした。

芹沢鴨を中心とした、新見錦、平山五郎、平間重助、野口健司からなる水戸藩出身の一派、近藤勇を中心とした、土方歳三、沖田総司、山南敬助、永倉新八、原田左之助、藤堂平助の一派も、この募集に応じて集まりました。

上洛した浪士組は発起人・清河八郎による指示のもと、江戸で攘夷を決行するべくとんぼ帰りを余儀なくされました。

そして「将軍の上洛を待たずして江戸へ引き返すことなどできない」と主張した芹沢一派と近藤一派が会津藩のお預かりという身分を与えられたことで、新選組の前身となる「浪士組」が結成されたのでした。

 

局長筆頭に芹沢鴨、局長に新見錦と近藤勇が据えられ、組織上では芹沢鴨がトップとなりました。

しかし、芹沢鴨は極端なまでに酒癖が悪く、大阪で力士の集団と乱闘騒ぎを起こしたり、金策を拒否した庄屋に火を放ったり……それこそ、あげればきりがないほど蛮行を繰り返していました。

これには浪士組を預かっている立場である京都守護職・松平容保も見過ごすことはできません。

そして近藤勇に芹沢鴨の暗殺を密命しました。

前職は神官?尊王攘夷のおひざもと水戸の出身

芹沢鴨の本名は下村嗣次。

水戸藩の出身で弟橘媛(おとたちばなひめ)神社の神官を務めていました。

現在でも、茨城県内に現存している、由緒正しい神社です。

芹沢鴨は弟橘神社の神官を務めていた下村家の養子になったため神官職を継いでいますが、実家は地元の郷士であった芹沢家。

医術の心得もあり、家伝来の秘薬「筋渡し」は会津藩からの処方を請われるほどの良薬で、今でも地元を中心に処方されているといいます。

(余談ですが、副長・土方歳三の生家にも「石田散薬」という家伝来の薬があり、ことあるごとに隊士たちに飲ませていたそう。
もしかしたら、芹沢家の筋渡しも飲まれていたかもしれません。)

水戸藩は尊王攘夷教育のおひざもとです。

地元の卿校で芹沢鴨も尊王攘夷思想の洗礼を受けるとともに、さまざまな学問を身に付けたといわれています。

安政の大獄が起きると水戸藩では攘夷の機運が高まり、芹沢鴨も多分に漏れず尊王攘夷運動へと突き進んでいきました。

繰り返される蛮行…芹沢鴨暗殺へ

1863年10月28日。

八木家の住人たちは、不可解な土方歳三の行動を目撃しています。

用もないのに縁側を行ったり来たり、奥の間から居室を覗いてみたり、あまりにも不振であったため随分と記憶に残ったようです。

このとき、芹沢鴨暗殺のため、土方歳三は下見をしていたとされています。

夜が更けると、芹沢鴨、平山五郎、平間五郎はそれぞれ遊女をともなって八木邸に戻り、それぞれ奥の間、中の間、本玄関に布団を敷いて寝ていました。

日付が変わるのと同時に、土方歳三、沖田総司、山南敬助、原田左之助が襲撃します。

平山五郎は即死、平間重助と馴染みの遊女は脱出しました。

これは、穏やかな人柄だった平間重助を、意図的に逃がしたともいわれています。

襲撃を受けながら、芹沢鴨は応戦しました。

しかし、脇差のみでは太刀打ちできず、縁側から隣室へと逃げようとしたところで一太刀を浴び、命を落としました。

 

現在でも、八木邸の鴨居には当時の刀傷が残っています。

この刀傷から、乱闘となったことをうかがい知ることができます。

ちなみに明治時代になってから八木家の住人は壁紙をすべて張り替えてしますが、当時の血のあとが残っていて耐えられなかったためともいわれています。