鬼嫁ならぬ鬼姫?伊達政宗の母・義姫

歴史に名を残した戦国武将の中でも、人気の高い伊達政宗。

カッコイイ男性を指す言葉、“伊達男”の由来としても有名です。

そんな伊達政宗の母・義姫は、“鬼嫁”ならぬ“鬼姫”としてその名を残しています。

義姫はなぜ、“鬼姫”と呼ばれたのでしょうか?

白髪の僧の夢

義姫は、山形城(現在の山形県山形市)主・最上義守の娘です。

彼女は17歳で、米沢城(現在の山形県米沢市)主・伊達輝宗と結婚しますが、二人の間にはなかなか子どもができませんでした。

こんな逸話が残っています。

子どもをなかなか授からない義姫は、長海上人という修験者に、湯殿山で祈祷するように頼みます。
長海上人は湯殿山に向かい、祈祷を行いました。
そして、火山である湯殿山に沸く温泉に浸した幣束を持ち帰ります。
その幣束は、義姫の寝所の屋根に掲げられました。ある夜、義姫は夢を見ます。
白髪の僧侶が、「そなたの体に宿を借りたい」と言うのです。
義姫はこの夢のことを、夫・輝宗に話しました。
すると、それは吉夢で縁起が良いと言われたので、また夢に現れた僧侶に、義姫は「体をお貸しします」と返事をします。
僧侶はとても喜んで、義姫に幣束を授けたそうです。

この夢を見た後、義姫は政宗を授かりました。




御輿で戦場へ

父・輝宗から18歳で家督を継いだ政宗。

政宗が継いだ伊達家と義姫の実家である最上家は、実は昔から対立関係にありました。

そして1588年。

大崎攻めに失敗した伊達の軍勢と、大崎氏側に味方していた義姫の兄・最上義光との軍勢が国境で睨み合い、まさに一触即発の状況になってしまいました。

この時、政宗自身は別の場所で戦っていて、そこに駆けつけることはできませんでした。

すると、これを知った義姫は、なんと輿に乗って戦場に乗り込みます!

そして伊達軍と最上軍の間に居座って、「兵を退かせるまで、ここから一歩も動きません!」と言います。

義姫は、なかなか頷かない兄・義光を、80日にも渡って説得しました。

結局、両軍とも義姫の粘り強さに根負けし、ついには和議を結ぶことになりました。

政宗毒殺未遂事件

義姫と言えば、実の息子・政宗に毒を飲ませて暗殺しようとした鬼母として、歴史にその名を残した人物でもあります。

これが、義姫が“鬼姫”として伝えられている理由です。

 

義姫は疱瘡にかかってしまった政宗を段々と嫌うようになります。

そして、弟の小次郎を可愛がりはじめ、伊達家の跡取りにしようとします。

しかし、これが発覚したため、政宗は小次郎を殺してしまいました。

 

その後、義姫と政宗の関係はどうだったのでしょう。

二人がやり取りした手紙も残っていて、義姫が最上家へ戻った後、兄・義光の死後に行き場を失ってしまうと、政宗は義姫を引き取っています。

この時以降には、二人は和解していたと考えられますが、義姫は政宗に引き取られたその年に76歳でこの世を去りました。

 

政宗は親への情から義姫を引き取ったのか、その逆か。

真実は政宗のみ知るところなのかもしれません。