穢れなき聖母・細川玉子

はじめに

戦国の美女として有名な細川ガラシャ。

本名は細川玉子といいます。

玉子は明智光秀の娘として生まれ、父親が親しかった細川家の嫡子・細川忠興と、16歳の時に結婚しました。

しかし、1582年の本能寺の変で、玉子の人生は大きく動き出します。

才色兼備だった玉子が辿った人生とは、どのようなものだったのでしょうか?




本能寺の変と玉子

明智光秀が織田信長を裏切った事件として、本能寺の変は伝わっていますね。

それによって歴史は大きく動き出しますが、光秀の娘だった玉子の人生も、この事件をきっかけにして変わっていきました。

玉子の父・光秀は、本能寺の変を起こしたその後、豊臣秀吉によって打ち滅ぼされます。

すると、玉子の嫁いだ細川家では、謀反人・光秀の娘である玉子をどうするか?と問題になりました。

玉子と離婚するか、自害させるかをしなければ、細川家も謀反に加担したと思われてしまうからです。

しかし、玉子の夫・忠興はどちらも選ばず、玉子を丹後半島の味土野の山に幽閉しました。

忠興は雅な趣味を持つ人でしたが、その一方でとても気性の激しい人でした。

玉子を心底愛していた忠興は、表向きは離婚したとして、玉子を閉じ込めてしまう道を選んだのです。

 

味土野で2年ほど過ごした春、玉子は忠興のところに帰ることが許されます。

こうして玉子は、大阪・玉造の細川の屋敷へと行くことになりました。

やっと幽閉生活を終えた――そのはずが、嫉妬深い忠興によって今度はその屋敷でも、玉子は自由に外に出ることもできず、また閉じ込められるような生活を送ることになるのです……。

秀吉に見せた強い覚悟

秀吉は女好きとしても有名です。

忠興は、そんな秀吉に玉子が目をつけられるのでは?と心配したので、自由な外出を許さなかったといわれています。

しかし、その忠興の出陣中に、秀吉は玉子を大坂城に呼び出しました。

秀吉と面会した玉子は、深く礼をしました。

その時、玉子の懐から短刀が――!

玉子は秀吉の前で、わざと短刀を落としてみせたのです。

秀吉はこのことを、「あの時ほど驚いたことはない」とまで言ったそうです。

玉子はどうしてそんなことをしたのか?

なんと、秀吉のことを無言で脅していたのです。

「もしも何かしたら、この場で私は死んでやりますからね!」ということです。

そんなことをされては、忠興はもちろん、大坂城の近くで暮らす妻を持つ大名たちがどんな反応をするか?

この後、秀吉は二度と玉子を呼び出そうとはしませんでした。




細川ガラシャの誕生

1582年の春のことです。

忠興が九州鎮圧で留守にしていたところ、玉子はひっそりとキリシタンの教会へ向かいます。

味土野の幽閉生活を一緒に過ごした侍女・清原マリヤ。

窮屈な幽閉生活、その後も外出の自由もない――そんな環境の中で、キリシタンであった彼女の存在は玉子の心に強い影響を与えたようです。

そして忠興の留守に、いよいよ教会を訪ねることができました。

玉子が協会に行くことができたのは、この一度きりだった上、この時に洗礼を受けることも叶いませんでしたが……。

しかし、信者からも洗礼を受けることができると知って、玉子はその方法を学んだマリヤから洗礼を受けます。

こうして玉子はキリシタンとなり、“ガラシャ”という名前を授かりました。

信仰と覚悟を持って……

1598年に秀吉が亡くなると、東軍と西軍に分かれて関ヶ原の戦いが起こります。

忠興は息子を人質に出している東軍・家康に味方しますが、西軍の本拠地である大阪に玉子を残します。

どちらが勝つとしても、細川家を守れるようにとの苦肉の策でした。

西軍の石田三成は、人質として玉子を大坂城へ連れていくだろうことは想像できること。

出陣する忠興は、玉子に「人質には絶対になるな」と言います。

夫に同じことを言われた大名の妻は、その多くが逃げ出しました。

しかし、玉子は忠興の言葉を最期まで守り通しました。

玉子を人質にするために、三成は何度も使者を送ってきましたが、玉子はすべて拒否しました。

そしていよいよ無理に人質にしようと屋敷を囲まれると――玉子は小笠原小斎に自分の胸を突かせて、この世を去ります。

玉子は忠興の言葉を守るために死を選ぶことにしましたが、キリシタンである彼女に自害は許されません。

なので、家臣に自分の胸を突かせました。

玉子のこの行動で、人質を取ることに不安を覚えた三成は、この作戦を中止します。

玉子は夫の言葉を守りながらも、自分の信じるものを最期まで貫き通しました。

それを可能にしたのは、玉子自身が強い心の持ち主だったからではないでしょうか?