太平洋戦争の名将|牛島満

牛島 満

<出典:wikipedia

牛島 満 うしじま みつる
(1887年~1945年)

 

1887年。

牛島満は東京都で誕生。

父母の故郷の鹿児島で育ちます。

1908年に陸軍士官学校を卒業。

1932年に大佐に昇進します。

 

1936年。

二・二六事件が起こり、陸軍は大幅な人事異動をします。

これにより、牛島は歩兵第1連隊長として満州に転任することとなります。

 

満州に移った牛島は、朝鮮との国境付近で抗日パルチザンとの戦闘に従事します。

戦闘の際の牛島の訓示は常に同じ。

・火事を出すな
・任務を忘れるな
・風邪をひくな
・生水を飲むな

これを2回繰り返すだけのとても短い訓示は、兵たちから非常に評判が良かったといいます。

太平洋戦争勃発。沖縄で苦闘する牛島

1941年。

太平洋戦争が勃発。

はじめは優勢だった日本も徐々に戦局が悪化していきます。

1944年8月10日。

極度に悪化した戦況のなか、牛島は沖縄に赴任することになります。

 

このころアメリカはすでに沖縄攻略を考えていました。

その様子は日本も実感しており、牛島は沖縄の住民を戦渦に巻き込まないため、移動させようと考えます。

 

しかし、8月22日。

疎開児童と一般疎開者を乗せた輸送船「対馬丸」は、アメリカ潜水艦に撃沈されてしまいます。

犠牲者は1500名。

この一報を受けた牛島は、目をつぶり合掌。

その手は静かに震えていたといいます。

 

10月5日。

アメリカ軍が正式に沖縄攻略を決断。

1945年3月に、沖縄本島へ空襲を開始します。

3月26日。

アメリカ軍は慶良間列島へ上陸。

4月1日に沖縄本島中部西海岸に上陸します。

しかし、日本軍からはたいした反撃もありません。

アメリカ軍は「エイプリル・フールではないか?」と首をかしげます。

 

アメリカ軍の沖縄上陸が近いと感じていた牛島は「持久戦」を決意していました。

牛島は老臣や女性、児童を沖縄北部に避難させる命令を出すと、沖縄南部に要塞を築きます。

そして体力を温存するため、沖縄の中部エリアを放棄。

沖縄に上陸したアメリカ軍に反撃する機会を待ちます。

 

アメリカ軍上陸から1週間後。

日本軍が猛反撃を開始。

今までとは比べ物にならないほど充実した火器と要塞は、アメリカ軍足止めに成功します。

しかし、5月4日。

牛島の作戦は消極的であると批判され、沖縄島の飛行場を奪回するように圧力がかかります。

これを受け、牛島は総攻撃を許可しますが失敗。

兵力の大半を失ってしまいます。

 

司令部は首里を放棄して南部に移り、6月18日。

牛島満は第10方面軍司令官に最後の打電を行い、沖縄での組織的な戦闘が終結。

6月20日に大本営は牛島の戦死を認定。

6月23日。

洞窟で生存していた牛島は辞世の句を2首詠んで、腹を掻き切り亡くなりました。

矢弾付き 天地染めて 散るとても
魂還り魂還りつつ 皇国護らん

秋待たで 枯れ行く島の 青草は
皇国の春に 甦らなむ

魂になっても国を護りたいと願った牛島は、死後、日本陸軍大将となりました。