サラブレット源頼朝!鎌倉時代を切り開いた男の生涯と謎の死

鶴岡八幡宮から住宅地を抜けていくと、そびえるような石段のむこうに小さな鳥居があらわれます。
一段一段とのぼって鳥居を潜ると、そこにひっそりと源頼朝の墓がたたずんでいます。

鎌倉幕府の開祖であり、武家政権の礎を築いた源頼朝は、この近辺で鎌倉幕府を興しました。
ゆかりのある鶴岡八幡宮とも程近い場所で、政治のかじ取りを行っていたのです。

現在では、静御前の産まれたばかりの息子を由比ガ浜に沈めたり、異母弟・義経を容赦なく討ったり、冷酷な政治家というイメージがある源頼朝。
はたして、実際はどんな人物だったのでしょうか。
今回は、鎌倉時代を切り開いた源頼朝、その生涯と謎の死に迫ります。

源頼朝はものすごいサラブレットだった

相模で謹慎していた源頼朝には、荒ぶる関東武士たちをまとめあげた成り上がり者といった印象があるかもしれませんが、ものすごいサラブレットでした。
・鎌倉を拠点に関東の武士を従え、全国の源氏をまとめていた源義朝。
・御神体に三種の神器のひとつである草薙の剣を祀る、由緒正しい熱田大神宮家の出身である由良御前
2人の間に生まれた源頼朝は周囲からも期待される存在でした。

源頼朝の初陣は平治の乱でした。
このとき、源義朝は宿敵であった平清盛に討たれ、源頼朝は都を落ち延びなくてはならなくなりました。
そして、平家一門への憎悪をふくらませるなか、美濃の付近で捕らえられてしまいました。

サラブレットの血筋であったことから、保身のために平清盛もおいそれとは源頼朝を討つことはできませんでした。
そのかわり、伊豆に流罪されることになりました。

20年の沈黙を破って立ち上がる

伊豆に流罪された源頼朝でしたが、この伊豆や相模の地方は源義朝が源氏の地盤を築き上げていたエリアでした。
また、謹慎生活はとても自由なものでした。
そこで、源頼朝は伊豆だけでなく鎌倉から房総半島にいたるまで自由に移動したり、各地の知人と手紙のやりとりをしたりして、
さまざまな情報を得るようになりました。

源頼朝は関東の源氏をとりまとめる人物となりましたが、謹慎生活は20年にもおよびました。
転機が訪れたのは1180年を迎えてから。
以仁王の挙兵に呼応し、頼朝も鎌倉で立ち上がりました。
それからは鎌倉を本拠にプレーンとして陣頭指揮にあたりました。

勘違いされがちなのは、源頼朝の目的は平家討伐ではなかったということです。
・父親の仇である平清盛を討つこと
・自分たちを主体とした武家政権を樹立すること
・幼い安徳天皇の身柄を確保すること
・三種の神器を手に入れること
この4つが目的でした。

このことから源義経を討つことになった理由がうかがい知れます。
後白河上皇から官位を授かり、朝廷との接点を持とうとした行為は自らの政治構想を妨げるもので、排除せざるを得ませんでした。
また、壇ノ浦での安徳天皇の入水を阻止できず、三種の神器を回収できなかったことへの怒りもあったことでしょう。

日本史ミステリー!死因がまったくわからない

鎌倉幕府を興して武家政権が幕を開けました。
開府をいつとするかは諸説ありますが、源頼朝が征夷大将軍に任命された1192年とされる傾向にあります。
以降、源頼朝は鎌倉で政治家として活躍するものの、1199年に亡くなりました。

源頼朝は当時の政治の中心人物であったのにも関わらず、どのように死亡したのか記録が残っていません。
落馬をしたときに打ち所が悪かった、乗馬中に川へ落ちて溺死したなど、諸説あります。
脳卒中の麻痺によって落馬をしたため、死因は脳卒中であるという指摘もあります。
ですが、現在では暗殺説も濃厚となっています。

朝廷内の反幕府勢力による暗殺は納得いくものですが、
そればかりでなく朝廷内の工作をうまくできなかった頼朝を、正妻の政子が見限って暗殺したとも言われています。
いずれにしても、朝廷内の源頼朝に近しかった高官たちが相次いで暗殺されていることからも説得力があります。

ちなみに、源義経の亡霊の祟りによって命を奪われたなどの説も。
死因がわからないため、もはや日本史上のミステリーとなっているのです。