源義経は2人いた!!もう一人いた”消えた”義経

源氏には、源頼朝の弟と呼ばれる源義経(九郎義経)とは別に、「義経」と呼ばれる優れた武将がいました。

彼は平安時代末期の弓馬に優れた武将で、近江国・山本山城(滋賀県長浜市湖北町山本)の城主。

一般には山本義経(生没年不詳)と呼ばれています。

八幡太郎義家(源義家)の弟・新羅三郎義光の子孫(近江源氏)の血を引いています。

我々がよく知る九郎義経よりも遥かに家格が高い「源義経」です。

平氏に仕えた山本義経と流罪

山本義経は近江国内に勢力を持つと同時に、京武者(京で朝廷に仕える武士)でもあり、1168年時点で、平滋子(たいらのしげこ/後白河院の妻で高倉天皇生母)に仕えていました。

しかし、1176年12月。

山本義経は延暦寺の僧を殺害したことを責められ、流罪となりました。

原因は、近江最大の荘園領主延暦寺と在地領主山本義経との所領を巡った紛争。

強大な権力を持つ延暦寺の言いなりになった骨抜きの朝廷に、義経側の言い分が無視され処分されたといわれています。

流罪になった山本義経は、朝廷や平氏に不満を感じたことでしょう。

以仁王の敵を取った山本義経

1180年5月に以仁王(もちひとおう/後白河院第3皇子)の平氏追討計画が失敗。

以仁王は源頼政と共に戦死しました。

これを契機に源頼朝や源義仲ら源氏が挙兵しました。

罪を許され帰京していた山本義経も、同年11月に諸国の源氏に同調して、弟の柏木義兼ら近江源氏と共に兵を挙げました。

山本義経は、以仁王を殺した平氏有力家人・藤原景家と郎党たちを近江国内で討ち取り、その後、源義仲の軍勢に加わって入京しました。

源義仲軍で活躍した山本義経

後白河院から平宗盛追討の院宣を受けた源氏の義仲・行家は官軍となり、平氏が賊軍となりました。

義仲軍の武将だった山本義経は、都の守護を任された12名の有力武将の中に名を連ね、国司に任じられたトップ6となります。

しかし、このあと後白河院の信任は源義仲から関東の源頼朝へと移り、義仲軍は頼朝軍との全面対決を覚悟します。

 

義仲は一度北陸に後退して軍の再構築を計画。

北陸への退路の要として、近江に多くの拠点を持つ山本義経の活躍が期待されました。

ところが、頼朝が派遣した九郎義経の動きは素早く、義仲は関東勢を京で迎え撃つ羽目になります。

山本義経は勢多・宇治合戦で義仲軍の一員として戦闘に参加。

『吾妻鏡』によると、頼朝軍の搦手(からめて)大将軍は「九郎義経」、山本義経は錦織義弘の「義弘父」としてされています。

これを信じれば、二人の義経は宇治川の戦いにおいて敵味方として戦ったということになります。

消えた山本義経と義経伝説

九郎義経は、宇治の防衛線を突破後一気に入洛し、後白河院を確保。

義仲は京から落ち延びましたが、近江粟津(大津市粟津町)にて戦死します。

しかし、山本義経は義仲の最終決戦の史料に現れていません。

彼は義仲の北陸への退路の確保のため都を離れて奮闘していたのでしょうか。

とにかく彼はそれ以降一切の記録から消えてしまったのです。

 

元々近江源氏として京で知られた山本義経ですが、華々しい活躍の九郎義経の登場と入れ替わるようにその存在は影をひそめます。

のち九郎義経は自刃。

悲劇の武将は「判官びいき」という言葉を生むほど人々に惜しまれ、多くの「義経伝説」が各地に残されました。

でも、もしかしたら、これは消えた武将・山本義経と悲劇の武将・九郎義経という二人の源義経が同時代に活躍し、ニアミスしたことで、山本義経の足跡まで九郎義経の伝承として残った可能性もあるのではないでしょうか?

この仮定は各地になぜ多くの「義経伝説」が残っているかの一つの答えになるかもしれません。