第47代天皇 淳仁天皇

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第47代天皇
 淳仁天皇 じゅんにんてんのう
(733年~764年)

733年。
舎人親王と大夫人山背のあいだに生まれた淳仁天皇。
天皇に即位する前は大炊王と呼ばれていました。

淳仁天皇は即位前、藤原仲麻呂の私邸「田村第」を住まいとしていました。
そのため、当時、勢力を拡大していた仲麻呂と深いつながりがありました。

758年。
孝謙天皇から位を譲りうけた淳仁天皇は、第47代天皇になりました。
淳仁天皇は仲麻呂を右大臣に任命。
「恵美押勝」の名を与えました。
さらに、仲麻呂を「大師」の役職にも任命。
「大師」は太政大臣と同等の位で、様々な特権がありました。
こうして、藤原仲麻呂は宮廷内で強大な力を手に入れました。

761年。
仲麻呂の影響下にあった近江・琵琶湖畔に副都を増設。
この副都を「北京」と呼ぶようになり、さらに造営が進みました。
しかし、光明皇太后が亡くなると藤原仲麻呂は強力な後ろ盾を失い、その勢いに陰りがでてきました。

孝謙上皇の復活。皇族争いが激化する

孝謙上皇は今まで、保良宮で静養していました。
そのとき孝謙上皇を看病していた僧侶が、道鏡でした。
光明皇太后が亡くなると、母の重しが取れたかのように孝謙上皇の病状が回復。
道鏡は孝謙上皇の病気を治したということで、上皇の信頼を獲得しました。

藤原仲麻呂は、孝謙上皇と道鏡との仲を快く思っていませんでした。
そこで、淳仁天皇を通じて不満を訴えることに。
しかし、これが孝謙上皇の怒りを買い、上皇と天皇の仲が悪くなりました。
さらに、藤原仲麻呂を支えてきた巨勢堺麻呂(こせのさかいまろ)、石川年足(いしかわのとしたり)、藤原御楯(ふじわらのみたて)らが他界。
反対派の吉備真備は造東大寺司に就任してしまいます。
こうして、藤原仲麻呂は次第に追い詰められていきました。

起死回生を図るために仲麻呂は様々な手を討ちますが失敗。
ついにクーデターを計画します。
しかし、淳仁天皇&藤原仲麻呂側にはあまり兵が集まりません。
加えて反乱軍の烙印を押され、吉備真備の巧みな戦術に翻弄されます。
窮地に陥った仲麻呂は、平城京を脱出。
船で琵琶湖に逃れるところを切り殺されてしまいました。

淳仁天皇も、このクーデターを理由に捕えられ、親王に降格。
天皇の位を剥奪されました。
その後、母とともに淡路に流され、765年。
逃亡失敗で捕えられ、その翌日に亡くなりました。