津田梅子(明治時代)

Umeko_Tsuda_

<出典:wikipedia

津田梅子 つだうめこ (1864-1929)

 

1864年。

津田梅子は、洋学者の子として江戸で生まれました。

父の津田仙(つだせん)は幕府の番所調所で西洋の学問を学び、福沢諭吉らとアメリカで西洋農学を学んできました。

 

1871年。

アメリカから帰国した黒田清隆(きよたか)の意見により、女子留学生がアメリカに送られることとなります。

進んだ考えを持っていた梅子の父は、留学生の1人として梅子を加えるように願い出ます。

こうして、梅子は5人の女子留学生のうちに1人としてアメリカに留学することになり、岩倉使節団とともに横浜を出発しました。

当時、7歳だった梅子は、5人の中で最年少でした。

 

横浜を出発して1ヶ月後。

梅子はサンフランシスコに到着。

女子留学生の世話役となったのは、文部大臣の森有礼(ありのり)でした。

アメリカ人の家庭に引き取られた梅子は、娘のように育てられ、私立学校で英語や様々な教育を受けます。

また、この間に洗礼を受け、キリスト教徒になりました。

 

1882年。

梅子は11年間のアメリカでの生活を終え、日本に帰国。

英語力を生かして華族女学校の教師となります。

しかし、自立の道を求めたいと考えるようになった梅子は7年後。

ふたたびアメリカへと旅立ちます。

 

アメリカに渡った梅子は、生物学の研究に打ち込みます。

教授との共同研究で「蛙の卵の発生研究」の論文を作成。

これが日本人女性初の科学論文となります。

女子英学塾を開く

熱心に勉強する中で、梅子は女子高等教育開拓に自分の人生を捧げる決意をします。

3年間の留学から帰国した梅子は、華族女学校と女子高等師範学校(現在:お茶の水女子大)の教師となります。

そして、教師をしながら、自分のやりたい教育をする機会を待ちます。

 

1900年。

教師を辞めた梅子は女子英学塾(現在:津田塾大学)を設立。

個性を大切にする教育をしたいと考えてから、10年の月日が流れていました。

最初の生徒はわずか10人。

しかし、梅子は一人一人の個性を大切にするとともに、生徒が英語教師として生活できるように力を尽くします。

 

1901年。

梅子は『英学新報』を発行。

英語教育の普及につとめます。

 

梅子の情熱で塾も軌道に乗り始めた1917年。

梅子は病気に倒れてしまいます。

静養中も塾に熱い情熱をかけ続けましたが、1929年。

長い闘病生活の末、亡くなりました。

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