太平洋戦争の名将|樋口季一郎

樋口季一郎

<出典:wikipedia

樋口季一郎 ひぐち きいちろう
(1888年~1970年)

 

1888年。

樋口季一郎は岐阜県で誕生。

兵庫で育ちます。

陸軍士官学校と陸軍大学校を優秀な成績で卒業した樋口は、陸軍特務機関員としてロシアのウラジオストックに派遣されることとなります。

 

樋口季一郎は数ヶ国語を話せたため、その後もハバロフスク特務機関長やポーランド公使館付武官となり、陸軍きってのソ連情報通となります。

 

樋口季一郎。ユダヤ人と出会う。

あるとき。

樋口季一郎はソ連領のグルジアでユダヤ老人と出会います。

「私たちはどこへ行ってもいじめられます。
日本は太陽が昇る国。
ユダヤ人が悲しい目にあったとき、きっと助けてくれるはず。」

当時、ユダヤ人は迫害されており、日本に救いを求めていたのです。

この出来事があってから、樋口はユダヤ人の境遇に深い同情を抱くようになります。

 

1933年。

ドイツではナチスによるユダヤ人迫害が激しさを増していきます。

国を追われたユダヤ人たちはポーランドを目指しますが、ポーランドは難民受け入れに難色を示します。

そこで、ユダヤ人たちはソ連へ。

シベリア開拓の労働力として迎え入れられます。

しかし、農業経験の少ないユダヤ人には開拓は難しく、途中からソ連は受け入れを拒否します。

ソ連を追い出されたユダヤ人たちは、満州を経由して上海にあった日本租界を目指します。

 

同じころ、樋口は関東軍司令部付で満州国のハルビン特務機関長に就任しました。

満州で大勢のユダヤ人を救う

1937年12月26日。

第1回極東ユダヤ人大会が開かれます。

このとき樋口季一郎は、壇上から

「ユダヤ人追放の前に彼らに土地を与えよ」

と演説。

暗にナチスドイツが行っていた反ユダヤ政策を批判します。

すると新聞記者からは

「日独伊三国同盟に水を差すのではないか?」

と質問を受けます。

これに対し、樋口。

「祖国のないユダヤ民族に同情するのは国是である」

毅然と答えたと言います。

 

1938年3月。

満州国境近くにあるソ連の町・オトポールに、ユダヤ難民が押し寄せます。

その数は5000人。

しかし、満州国外交部は同盟国ドイツに配慮してユダヤ人の入国を拒否してしまいます。

 

この時期のオトポールは、最低気温がマイナス20℃。

入国拒否を続ければ、多くのユダヤ人が凍死してしまいます。

そこで動いたのが、樋口季一郎でした。

樋口は、満州国外交部へ働きかけビザ発給を促します。

これにより、多くのユダヤ人が満州へ入国し、助かりました。

 

1942年から終戦まで。

樋口は札幌に司令部をおく第5方面軍司令官を務めます。

終戦を迎えると、樋口はソ連のスターリンから戦犯の指名を受けてしまいます。

しかし、マッカーサーは身柄引き渡しを拒否。

裏には、世界中のユダヤ人たちの助命活動があったのではないかと考えられます。

 

樋口はその後。

82歳まで生き、1970年に亡くなりました。

現在でも、イスラエルの首都エルサレムにあるゴールデンブックには「偉大なる人道主義者ゼネラル・ヒグチ」と刻まれています。