松尾芭蕉は忍者だった説!実際のところどうだったの??

松尾芭蕉

<出典:wikipedia

はじめに

『奥の細道』で知られる松尾芭蕉には、昔からある仮説がついて回ります。

それが「松尾芭蕉・忍者説」です。

日本各地、津々浦々を旅して見事な俳句を残した松尾芭蕉が「俳句の旅というのは建前で、本当は日本中の諸藩を回って内情を偵察していたのではないか」という説です。

もはや都市伝説のような仮説ですが、実際のところはどうだったのでしょうか。




松尾芭蕉の出自から見る忍者説

忍者かどうかを判断する材料は、まずどこの出身で誰の子供なのかということです。

忍者というとすべてが謎と思われがちですが、忍者の多くはある程度であればどこの出身で、どんな身分かがはっきりしています。

分かりやすい例だと徳川家康に仕えた服部半蔵でしょう。

 

さて、松尾芭蕉の出自ですが、松尾氏は元々伊賀の土豪で福地姓を名乗っていました。

織田信長の伊賀攻めの際に信長の先導役を買って出ましたが、本能寺の変後に他の伊賀の土豪たちに追われて松尾姓を名乗り始めました。

この元々の家系を辿っていくと、伊賀の忍者リーダー格の地侍だったのではないかと考えられます。

よって、出自としては「忍者の家系」と言えなくもないですが、松尾芭蕉が生きていた江戸時代は忍者そのものが珍しかった時代です。

多くの忍者は仕事がないため農民や商人になって生活していました。

現に松尾芭蕉も俳句で身を立てており、忍者としての生き方は選んでいませんでした。

松尾芭蕉は忍者のように足が速かった?

「松尾芭蕉は健脚だったから忍者である」という説もあります。

『奥の細道』を見ると、松尾芭蕉は約140日の日程で全国15か国、450里(約1,800キロ)を旅しています。

福島~郡山間46キロを一日で歩いているのは確かに健脚と言えます。

では、当時の旅人や役人、忍者の歩く距離と比べると松尾芭蕉はどうだったのでしょうか。

 

江戸時代の成人男性が一日で歩く距離は10里程度(約40キロ)、女性や老人なら8里程度(約32キロ)です。

盗賊や放火を取り締まった火付け盗賊改め方の役人は20里程度(約79キロ)で、忍者は30里(約118キロ)と言われています。

このように比較してみると、松尾芭蕉は現代の私たちから見ると確かに凄い距離を歩いているように見えますが、本職の忍者と比較するとまだまだ……というのが分かります。

江戸時代の忍者は何をしていた?

全国を旅して諸藩の動向を探っていた……と囁かれていますが、当時の忍者はそういった偵察任務をしていたのでしょうか。

忍者の仕事の最たるものは、諜報活動です。

しかしこれも戦国時代の争いが絶えなかった時代のことで、江戸時代にもなるとほとんどの忍者は仕事が無くなってしまいました。

戦争をしているわけではないので、他国の動向を探ってもなんのメリットもないのです。

そういった事情もあり、多くの忍者は就職先が見つけられず農民や商人に転身していきました。

運良く就職できても、城の警備や鉄砲の整備や研究といったものばかりで、偵察任務そのものが廃れていったのです。

このような江戸時代の忍者事情を鑑みると、松尾芭蕉が偵察任務を受けていたというのは少々考えにくいことだと思われます。

まとめ

松尾芭蕉・忍者説を検証していきましたが、いかがでしたか?

一つ一つ見ていくと、松尾芭蕉=忍者だったと考えるのは少し難しく思えます。

しかし、松尾芭蕉が全国を旅した事実は変わりありませんし、『奥の細道』が素晴らしい俳句集であることも事実です。

また、記録に残っていないだけでもしかしたら密命を受けていたのかもしれません。

「松尾芭蕉・忍者説」は真実はどうであれ、私たちの好奇心を掻き立てるロマン溢れる仮説ではないでしょうか。