昭和時代の流れを分かりやすく解説

昭和時代

日露戦争後、軍人の人気が高まり軍人になる少年が増加。

しかし、時代が進むにつれて日本は国際協調の方針を取るようになり、軍備も縮小していきます。

これにより、軍人の社会的地位は低下し、若い将校たちの士気も下がり、軍部が不満を抱くようになっていきます。

 

一方、1920年代の日本は不況が続いていました。

1927年には関東大震災の影響で取り付け騒ぎがおこり、多くの銀行が休業しました。

そんな中、産業界では三井・三菱・安田・住友の四大財閥が、独占と集中によって大きな力を手に入れます。

銀行を中心とした大財閥は、多くの産業部門を傘下におさめて、経済界を支配し、政党との結びつきも強めて政治にも関与するようになります。

 

国際協調を目指す政府とそれぞれの思惑

1928年。

当時の内閣は、欧米諸国と協調関係を保つことを基本とし、不戦条約を結んで国際紛争に対し平和的解決をする方針を明らかにします。

 

しかし、1929年。10月

アメリカの株価が暴落!!

世界経済が大混乱します。

この混乱を打開するために各国が行ったのが、ブロック経済

自分の国や植民地以外との貿易なくして、景気を回復しようとします。

 

世界中がブロック経済を実行すると、日本が貿易できる国はなくなってしまいました。

しかし、日本では資源はまったく取れません。

加えて、質のいい労働力はたくさんあります。

このままでは1千万人以上の失業者が出て、暴動が起き、日本が崩壊してしまいます。

こうして、日本はアジアに進出する以外に、日本を立て直す手段がなくなってしまったのです。

 

また、日本はほかにも世界情勢に大きな問題を抱えていました。

当時は人種差別が美徳とさえ思われていた時代。

そのため、日本に対するあたりが強く、アメリカでは日本の移民を受け入れないという法案が可決します。

ソ連の脅威も高まりました。

日本のすぐ北側で、社会主義国のソ連がつねに南下を狙っていたのです。

 

さらにこの頃、新聞の発行部数も増えてきています。

自由民権運動のころから出版物が徐々に増え始め、1930年代初めには、「東京朝日」「大阪朝日」「東京日日」「大阪毎日」のそれぞれが1日100~150万部も発行し、世論形成に大きな影響力を持っていたのです。

 

これらを背景に、1931年、満州事変がおこります。

日本の関東軍が満州鉄道の線路を自ら爆破すると、中国軍の仕業だとして攻撃を開始。

新聞もいっせいに中国側を非難し、日本軍の行動を賞賛するキャンペーンを展開。

ニュースや新聞で、満州各地をつぎつぎに占領する日本軍の様子が伝えられると、国民は熱狂しはじめます。

当時の内閣は、日本軍の行動を抑えようとしますが、軍部は内閣の声明を無視し、国民は日本軍の行動を支持。

こうして、日本は軍国主義へと傾いていきます。




軍部の支配と日本の孤立化

1932年。

事実上、日本が満州を支配。

しかし、これは不戦条約に反するとして国際的な非難を浴びます。

国際連盟が日本軍の撤退をもとめると、日本は国際連盟脱退して孤立化への道を歩み始めます。

 

軍部の力が強くなった日本では、徐々に言論の自由もなくなってきます。

1933年、京都帝国大学教授の滝川幸辰は自由主義的な刑法学説を説いたため休職処分。

1935年、当時広く受け入れられていた「天皇は国の中の一つの機関にすぎない」という学説は国体に反する学説として軍部から激しく攻撃されるようになります。

 

1936年になると、独裁政権のドイツや、ファシスト党政権下のイタリアと手を結びます。

 

このような状況の中、1937年、北京郊外で日本軍と中国軍の武力衝突が起こります。

戦火は上海や中国中部にも広がり、日中戦争に発展します。

日中戦争がはじめると、アメリカ、イギリス、ソ連などが中国に援助をはじめます。

また、アメリカは日本に対して経済制裁をします。

これにより、戦争が長期化したため、国家すべての力を戦争に集中する必要がでてきた日本。

物資や労働力を議会の承認なしに戦争に使える法案を制定します。

一般会計の4分の3を軍事費にあて、産業も戦争中心のものになり、労働組合は解散されていきます。

国民の生活はどんどん切り詰められていき、学校教育も小学校から国民学校に変わって軍国主義教育に傾きます。

 

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