明治時代の流れと服装・暮らし・食事を解説

明治時代

外国の圧力に負けて不平等な条約を結んでしまった江戸幕府。

外国人を排斥しようという考えが各地に広まります。

 

そんな中、まず動いたのが朝廷・幕府ともに深い関係にあった薩摩藩。

朝廷と幕府が一緒になって国の政治を安定させ強い国を作るように働きかけます。

しかし、長州藩が、薩摩藩が留守のすきをついて朝廷の実権を握り、京都で反対派を次々に暗殺。

手段を選ばず、天皇崇拝外国人排斥の思想を実行しようとします。

これを快く思わなかった薩摩藩と孝明天皇は、武力によって長州藩を京都から追い出します。

 

薩摩藩と長州藩の敗北

ちょうどそのころ、薩摩藩はイギリスと戦争し敗北します。

これにより外国の武力をおもい知った薩摩藩は、外国人を排斥できないことを悟ります。

翌年、長州藩もイギリス、フランス、アメリカ、オランダの連合国と戦争して敗北。

外国人排斥の運動が無意味だと悟り、倒幕の考えに移ります。

 

薩摩藩と長州藩。

お互いに今のままでは日本が危ないと感じていましたが、京都での一件があり両者は険悪な関係が続いていました。

そこで、坂本龍馬が登場。

龍馬は薩摩と長州の会談を実現させ、薩長同盟を結ばせることに成功します。

これにより、強力な力を手に入れた薩摩藩と長州藩は、江戸幕府を倒し明治時代がはじまります。




新政府による近代化

新政府の中心は江戸幕府を倒した薩摩藩、長州藩、土佐藩、肥前藩。

天皇中心の中央集権国家を作り、近代化を進めはじめます。

まず、とりかかったのが、藩を解体して新しく県を定める廃藩置県

当時、政府の財政は苦しく、藩主がそれぞれ兵力を持っていたため、何もしなければ新政府がすぐに崩壊することが分かっていました。

そこで、新政府から各地を統治するための地方官を派遣し県を統治させました。

当然、藩の武士たちが反発すると考えていた新政府ですが、予想外に反乱は起きずスムーズにことが進みます。

理由として考えられるのは、倒幕の時の戦いで各藩の財政が苦しかったこと、廃藩置県の必要性を藩主が理解していたこと、武士に優遇措置をとったことなどがあげられます。

その後、新政府は近代化のための政策を徐々に打ち出していきます。

 

○ 四民平等

国家の独立を守り、欧米諸国と肩を並べるには日本を近代化する必要があります。
そこで、古い身分制度を廃止して、武士と農工商民を平等にしました。
これにより、職業選択が自由になり身分間の結婚もできるようになります。
ただし、建前上は平等でしたが、しばらく差別が続き、とくに「えた・ひにん」の流れをくむ人たちは長い間、居住・教育・就職・結婚で不利な立場が続きます。

○ 徴兵令

今まで戦いは武士のものでしたが、新政府は身分に関係なく20歳以上の男子に兵役の義務を課すことに!
銃を使った近代兵器メインの戦闘になり、強い軍隊を作るにはこの方法にする必要があったためです。

○ 地租改正

様々な改革を進めるには、財政の安定が不可欠。
そこで、今まで取れ高に応じてお米を徴収していましたが、土地の価値の3%を現金で納める形式に変えます。
これにより、政府には毎年同じ額のお金が入ってくるようになり、土地所有者も明確になりましたが、税が重すぎたため一揆が何度も起こり2.5%に引き下げます。

○ 官営工場

政府は、経済力の差が国力の差を生んでいると考えます。
そこで、幕府や藩が運営していた工場や造船所を国が運営することにし、多額の資金を投じて新たな工場を作りはじめます。
近年、世界遺産に登録された富岡製糸場もその一つです。

 

政府はこのほかにも貨幣制度改革、鉄道の設置、郵便事業の開始、小学校の設立など様々な改革を打ち出しました。

しかし、明治新政府の近代化はあまりにも急激で、国民の生活を無視したものも少なくありませんでした。

新政府は巨額の経費を賄うために、農民から重い税をとりたて、兵役の義務や小学校の設置義務などをおわせます。

また、士族(元武士)も次々と特権を奪われ経済的に行き詰まり、政府に不満を持ち始めます。

そんな中、ついに士族の不満が爆発。

西南戦争が起こります。

明治政府は徴兵制で作った新たな軍隊を総動員。

士族4万人と対決します。

この戦は8ヶ月にわたって九州で展開されましたが、結局政府軍が勝利します。

 

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