母の魂を輪廻の輪から断ち切れ!! 律宗の僧 忍性

忍性

<出典:wikipedia

忍性(にんしょう)
建保5年7月16日(1217年8月19日) – 乾元2年7月12日(1303年8月25日))

はじめに

忍性は鎌倉中期の律宗の僧です。

律宗とは戒律を重視する仏教で、中でも忍性は彼の師である叡尊の開いた奈良の西大寺を本山とする真言律宗の僧です。

 

鎌倉時代といえば、親鸞や日蓮などが開いた鎌倉仏教がありますが、これらは当時としては新興宗教で、その教えでは戒律は重要視されません。

それに対して戒律を守ることを重要として、戒律復興運動に励んだのが忍性です。

額安寺で出家 東大寺で受戒

忍性は1217年に奈良県に生まれました。

忍性の父親は、その後に忍性の師となる叡尊の活動を手伝っていました。

しかし、忍性が出家するまでの幼少期に、大きな影響を与えたのは母親の榎氏です。

宗教的な環境に早くから馴染んでいた忍性ですが、16歳の時に榎氏が亡くなります。

榎氏は死の間際に、忍性に僧侶の姿になってほしいと頼みます。

そこで忍性は、髪を剃り、法衣を着ました。

榎氏は自らの極楽浄土への往生よりも、息子である忍性の将来を案じて亡くなります。

そのため、忍性は母の魂は極楽浄土へは往生せず、六道輪廻の輪のどこかに生まれ変わり、苦しんでいると考えました。

こうして、忍性の僧としての課題は、母の魂を輪廻の輪から断ち切り、成仏させることとなりました。

忍性はこの年に額安寺で出家し、その翌年に東大寺で受戒します。

 

1239年、23歳の時、忍性が生涯の師とした叡尊に出会います。

彼から再度、戒を受け(教団に加入するため、守るべき戒めを受けること)弟子となります。そしてその一年後、額安寺で出家の儀式をやり直し、叡尊の教団へと入りました。

 

忍性は叡尊から受戒した時、出家を勧められましたが、これを断っています。

その理由は死に別れた母親の榎氏にあり、「出家するのは、母の魂を成仏させるために自分に課した課題を果たしてから」と言いました。

母親の榎氏が、忍性の宗教活動に大きな影響を及ぼしたことが、よく分かります。

非人救済活動で4万人を救う

忍性は春文殊を額安寺西宿に安置したこと、その非人宿の住人に斎戒を授けること、文殊の開眼供養をすることで、母から受けた恩へ報いることは果たしたとします。

そして叡尊の弟子として出家し、その後は南都(奈良)で非人の救済、律宗の教えの整備をしていきます。

こうして忍性の文殊信仰が取り入れられ、非人を文殊菩薩の化身とみなす西大寺流律宗の非人救済運動が広がっていくのです。

 

忍性は1267年に、生涯の活動拠点となる鎌倉・極楽寺を開山します。

鎌倉でも、非人救済を始めとする慈善事業に努めます。

彼が開いた桑ヶ谷療病院では、20年間で収容された患者のうち、治癒した人が4万6800人、亡くなった人が1万450人で、5分の4が治癒したと言われています。

【非人】
非人という言葉は仏教に由来するとも言われ、『法華経』「提婆品」などにこの単語が見られるが、そこでは差別的な意味合いは全く無かった。
中世前期には人々が畏れ忌避した業務に携わっていた者が非人と呼ばれた。
中世後期に人々の感覚が次第に「畏れの忌避」から「穢れ(触穢)の忌避」に変遷すると共に、非人に対する捉え方も畏怖視から卑賤視へと変遷していったとされる。
やがて河原者・無宿者などを指すようになり、江戸時代には身分や居住地域・従事職能等が固定化された。