後鳥羽上皇(鎌倉時代)

Emperor_Go-Toba

<出典:wikipedia

後鳥羽上皇(ごとばじょうこう) 1180年~1239年

 

1180年。

後鳥羽上皇は高倉天皇の皇子として生まれました。

この年は、都が兵庫県に移されたり、源頼朝が平氏を討つために挙兵した年でもありました。

 

1183年。

安徳天皇が平氏とともに西国へ逃れました。

そこで、祖父の後白河法皇がまだ4歳の後鳥羽上皇(まだ上皇ではない)を天皇にしました。

後白河法皇が亡くなると、今度は法皇に仕えていた源通親が朝廷の実権を握り、孫の土御門天皇が即位。

後鳥羽上皇はわずか19歳で上皇となってしまいます。

 

後鳥羽上皇は武芸に優れていましたが、特に和歌が得意でした。

和歌所をつくり、藤原定家ら歌人に和歌集の編集を命じます。

そして1205年。

和歌集『新古今和歌集』が完成しました。

上皇として実権を握りはじめる

後鳥羽上皇は、やがて自分で直接政治を行うようになっていきます。

鎌倉幕府に対して朝廷の勢力を取り戻すことを考え政治を開始。

御所を警備していた北面の武士のほかに、新たに西面の武士も配置。

朝廷の力を強化します。

 

後鳥羽上皇は和歌を通して、鎌倉幕府3代目将軍の源実朝とも仲良くしていました。

そのため、はじめは朝廷と鎌倉幕府の関係は良好でした。

しかし、1219年。

将軍の実朝が殺されると、幕府から後鳥羽上皇の皇子を将軍にしてほしいという依頼がありました。

後鳥羽上皇はこれを拒否。

実朝の死により、幕府が崩壊することを期待します。

しかし、幕府は藤原頼経を将軍に迎えることで支配体制を固めてしまいます。

もはや武力で幕府を倒すしかない。

そう考えた後鳥羽上皇は、1221年。

武士や僧兵に北条義時討伐の命令を出します。

このとき上皇は、北条氏に不満を持つ御家人がたくさん集まると考えていました。

しかし、上皇の元にはたった2万の武士たちしか集まりませんでした。

 

朝廷軍2万に対して、幕府軍は19万。

圧倒的な軍の差により、後鳥羽上皇はわずか1ヶ月で敗北。

後鳥羽上皇は義時を討つ命令を取り消すと、「自分は関わっていない」と言い訳を始めます。

当然、幕府はそれを認めず、後鳥羽上皇は島根県に流され、18年後亡くなりました。