第96代天皇  後醍醐天皇

godaigo

<出典:wikipedia

第96代天皇
 後醍醐天皇 ごだいごてんのう
(1288年~1339年)

1288年。
後醍醐天皇は、大覚寺統の後宇多天皇の第二皇子として誕生。
母は藤原忠子(ちゅうし)で、名を尊治(たかはる)といいました。

後醍醐天皇は小さいころ頃からとても賢く、養育した祖父・亀山天皇は後二条に代わって大覚寺統の跡継ぎにしようとしたほどでした。
後醍醐天皇を皇太子にした持明院統の花園天皇も、日記で「皇太子は和漢の才を兼ね」といって絶賛していました。

1318年。
花園天皇が後醍醐天皇に天皇の座を譲位。
「一代限りの中継ぎ天皇」という立場で、後醍醐天皇が政治を開始しました。

後醍醐天皇は朱子学を学んでおり、日本の政治は肩書き上トップの天皇が行うべきだと考えていました。
なので、即位すると打倒鎌倉幕府と天皇親政に力を注ぎます。

1324年。
後醍醐天皇は鎌倉幕府を倒す計画を立てます。
しかし、これは事前に幕府にバレてしまい失敗に終わりました。

後醍醐天皇が鎌倉幕府を滅亡させる

1331年。
後醍醐天皇は再び倒幕計画を打ち出しますが、またも幕府にバレてしまいます。
そのため、後醍醐天皇は三種の神器をもって御所を脱出。
幕府に不満を持つ武士に呼びかけ挙兵します。
これに呼応したのが楠木正成や新田義貞、足利尊氏でした。
一度は隠岐に流された後醍醐天皇でしたが、楠木正成ら武士の力により幕府を滅ぼしました。

幕府を倒すと、政権は再び天皇のもとに。
しかし、後醍醐天皇は倒幕に協力した武士の扱いをないがしろにし、理想とする天皇と公家中心の政治改革を一気に進めてしまいました。
そのため、足利尊氏を中心とした武士が反乱。
後醍醐天皇は奈良県の吉野に逃れることになります。

吉野についた後醍醐天皇は、自らが正当な天皇だと主張。
一方京都では、武士が光厳天皇を立て今まで通り政治が行われます。
こうして、奈良の南朝と京都の北朝に分かれて50年以上にわたる対立がはじまりました。

1339年。
南朝が劣勢のまま、後醍醐天皇が52歳で亡くなりました。
ちょうどこの頃、疫病が流行したため、巷では後醍醐天皇の怨霊を恐怖する声が広がりました。