第111~112代天皇 後西天皇~霊元天皇

日本の歴史

<出典:wikipedia

第111代天皇

後西天皇 ごさいてんのう
(1637年~1685年)

 

1637年。

後西天皇は、後水尾天皇の第八皇子として誕生。

 

1654年。

先代・後光明天皇が若くして亡くなります。

後光明天皇には皇子がいなかったため、誰を次の天皇にするか問題になりました。

 

後光明天皇は生前、弟の識仁親王(霊元天皇)を後継者にしようと考えていました。

しかし、識仁親王はまだ生後4ヶ月。

そこで、成長するまで後西天皇が皇位を継ぐこととなったのです。

 

後西天皇は学問を好み、『後西院御記』や『水日集』などを著します。

また、和歌や連歌にも優れ、古典もよく理解していました。

しかし、後西天皇が政治をしていた時代は、内裏や伊勢神宮が炎上。

大阪城では火薬が爆発します。

さらに、江戸では”明暦の大火”が発生。

地方では地震や水害も相次ぎます。

 

「これらの天変地異は天皇の不徳にある」と言われるようになり、1663年。

後西天皇は、当時10歳の識仁親王に位を譲りました。

 


日本の歴史

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第112代天皇

霊元天皇 れいげんてんのう
(1654年~1732年)

 

1654年。

霊元天皇は後水尾天皇の第十九皇子として誕生。

1663年に後西天皇から譲位されて天皇となります。

 

霊元天皇は、天皇になった当時まだ10歳。

そのため、後水尾法皇が院政を行いました。

 

霊元天皇は、奔放な性格で若い近習公家とたびたび問題行動を起こしました。

1671年には側近と宮中で花見を開き、泥酔してしまうという騒ぎを起こしています。

しかし、後水尾法皇が高齢になるにつれ、霊元天皇が政務を取る機会が増え、1680年。

後水尾法皇が亡くなると、皇室再興に向けて動き始めます。

 

霊元天皇は幕府と距離を置き、親幕派の公家を冷遇。

強引に政治を行っていきます。

1683年。

朝仁親王(東山天皇)を皇位継承者として、長い間途絶えていた皇太子の称号を復活させます。

また、大嘗祭や賀茂祭、石清水八幡宮の放生会などを再開。

途絶えていた朝廷の儀式を次々と復活させました。