弥生時代の暮らし・遺跡・食事を解説

弥生時代(紀元前4世紀~)

紀元前4世紀ころ、大陸から稲作が伝わってきました。

はじめは九州地方に伝わり、100年ほどかけて近畿地方まで、紀元前後には関東地方、紀元2世紀には東北地方に伝わっていきます。

稲作がこれほど広まった理由は、食料の保存が効くため。

今までは木の実や動物が取れないと飢えで苦しむ心配がありましたが、お米を作れば保存できるので飢え死にする心配がなくなります。

ただ、稲作には水路の確保や田んぼを耕す作業、お米を保存する場所や、調理する道具など、様々なものが必要になります。

そのため、人々の生活にも大きな変化が現れました。

 

暮らしの変化

まずは生活人数の変化。

縄文時代は4~6軒がまとまって生活していましたが、排水設備などを管理するために10~30軒が集まって暮らすようになります。

 

次に、道具の変化。

稲作と同時期に伝わってきた金属を使うことで、効率的に田んぼを耕せるようになります。

 

お米の保存のために、建物も変わります。

今までは地面に直接屋根を乗せた竪穴式住居で暮らしていましたが、これでは湿気でお米がダメになったり、ネズミに食い荒らされたりしてしまいます。

そこで、地面から離れた高い場所に倉庫をつくって湿気を防ぎ、ネズミ返しでネズミが侵入できないようにしました。

<出典:やちくりけんブログ

最後に土器の変化。

大陸の技術と今までの文化が融合して弥生土器が生まれます。

弥生土器は縄文土器に比べ薄くて丈夫。

お米や野菜を煮るのに役立ちます。

煮炊き用以外にも、お水を溜めておいたりお皿として使ったりもしました。




集落の統合

これらの変化で生活が安定してくると、今度はお米を溜め込む人が現れ貧富の差が生まれます。

貧富の差はそのまま力関係につながり、集落内で上下関係が発生。

また、集落間でも貧富の差が生まれたため、他の集落から食料を奪おうとして争いが増えてきます。

争いのあとには集落が統合されて、徐々に小さな国が誕生。

ちなみに稲作には天候も大切なので、占いや雨乞いで天気を操る人も力を持つようになりました。

 

弥生時代の食事

弥生時代にはいると食事の内容が大きく変化します。

米や小麦、粟、ヒエなどを栽培するようになり、穀物が主食になります。

穀物は水を加え炊いたり、蒸したりしてスプーンで食べていました。

穀物のほかにもスイカやかぼちゃ、桃、梅、あんず、柿など、様々なものが栽培され食べられていました。

また、縄文時代から食べられていたクルミやドングリ、イノシシやシカ、果物や魚などは、弥生時代にも重要な食料のひとつでした。

 

弥生時代の遺跡

<出典:wikipedia

弥生時代の遺跡は全国各地に100以上!!(遺跡一覧へ

中でも有名なのは吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)でしょう。

吉野ヶ里遺跡は、佐賀県神埼郡の吉野ヶ里丘陵にある遺跡で、大規模な環濠集落として知られています。

その広さはなんと50ヘクタール。

二重に作られた壕(ほり)や物見やぐらが特徴で、外からの攻撃を防ぐことに長けていました。

遺跡からは勾玉や銅鏡、銅剣、石棺、土坑墓、布製品などが発見されています。

 

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