新選組の島田魁!再就職先は西本願寺の警備員!??

島田魁

<出典:新選組隊士人名事典

島田魁 しまだ さきがけ
文政11年1月15日~明治33年3月20日
(1828年2月29日~1900年3月20日)

はじめに

1900年(明治33年)。

西本願寺の夜間警備員だった島田魁が境内で倒れ、73歳で息を引き取りました。

西本願寺の近所で剣術道場を営んでいた島田魁は、1886年(明治19年)から剣術の腕を認められて夜間警備員に採用され、14年にわたって勤務していました。

その懐からは、新選組副長・土方歳三の戒名が書かれた紙が見つかり、執り行われた葬式の芳名帳には、新選組の二番隊組長・永倉新八(杉村義衛)の名前が記されていました。

西本願寺の夜間警備員、島田魁。

新選組の諸士調役兼観察、二番隊伍長として池田屋事件でも大きな功績を残し、戊辰戦争から箱館戦争まで戦い抜いた新選組隊士だったのです。

 

勤務していた西本願寺は、1865年から2年間、新選組の屯所として使用されていました。

島田魁は、夜間警備に勤めながらも亡くなった新選組隊士のため欠かさず念仏を唱えていたようです。

今回は、新選組の「誠」の旗印にふさわしい、新選組隊士・島田魁を紹介します。




永倉新八に勧誘されて、新選組に入隊

美濃国(現岐阜市)の雄総村には、力自慢の子供がいました。

しかも、他の子供たちよりも一回りも二回りも体が大きいのにとても俊敏だった為、剣術道場で修行するようになるとすぐに頭角を現すようになり、名古屋城で開催された御前試合で優勝したことで、大垣藩士・

島田才の養子となり「島田魁」と名乗るようになりました。

島田家の援助で剣術修行のために江戸に出ると、心形刀流・坪内主馬の道場に入り、師範代だった永倉新八と出会います。

島田魁は29歳、永倉新八は18歳でしたが、二人は年の差を超えて親友となります。

 

1863年。

帰国要請を無視して出奔した京都で再会した永倉新八に誘われて、京都市中の治安維持活動を行う新選組に入りました。

尊王攘夷派の志士たちの密会を新選組が襲撃した「池田屋事件」では、事件の発端となった古高俊太郎の捕縛に携わる一方、諸士調役兼観察として副長・土方歳三の指示のもと、隊内の粛清など汚れ仕事も多くこなしていたと見られています。

 

戊辰戦争直前。

伏見から京都市中に向かう近藤勇の護衛を務めていた時、馬上の近藤勇が狙撃されました。

機転を利かせた島田魁は、近藤勇を乗せた馬を走らせて命を救いました。

その後、新選組隊士として戊辰戦争を戦い、箱館で降伏しました。

新選組時代の島田魁の人物像とは?

西本願寺に屯所を移転する前に、新選組が屯所を構えていた壬生寺では、新選組が企画した相撲興行が行われました。

この相撲興行で大活躍した島田魁は、「力さん」というあだ名で親しまれるようになります。

身長、180センチ、体重169キロの体躯を誇る島田魁は、五斗俵三俵持つほどの力があると言われていました。

しかし、そんな容姿に似合わず、大の甘党という一面がありました。

鍋いっぱいに特製の「島田汁粉」を作るのですが、砂糖を大量に使ったこの汁粉を食べられる隊士は他にはいませんでした。

性格も大柄なのに機敏な働きをするように、戊辰戦争では永倉新八と決死隊を組んで刀一本で突撃するような豪胆さを持ちながらも、諸士調役兼観察に相応しい細やかな気配りができる人物だったようです。

鳥羽伏見の戦いの後、江戸へ向かう船中で、怪我人の看護や介護を積極的に手伝う優しさも持ち合わせていました。

明治維新後の島田魁

名古屋で二年間の謹慎を言い渡された島田魁は、新選組時代を回想し、島田魁日記を書きました。

現在、この島田魁日記は、永倉新八の回顧録とともに、新選組研究における貴重な資料となっています。

愛知県から放免を言い渡された後、妻の地元でもある京都に戻った島田魁は、西本願寺のすぐ傍に剣術道場を開きました。

明治時代になってから、新政府からの出仕要請が後を絶ちませんでしたが、島田魁は決して応じることはありませんでした。

しかし剣術道場の経営も振るわず、西本願寺の夜間警備員に就職しました。

西本願寺で倒れたこの日、島田魁は非番だったと言われています。

新選組隊士たちのため、毎日念仏を欠かすことがなかった島田魁は、非番でも西本願寺に足を運んでいたのかもしれません。