島崎藤村(明治時代)

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<出典:wikipedia

島崎藤村 -しまざき とうそん- (1872-1943)

 

1872年。

島崎藤村は長野県で7人兄弟の末っ子として誕生。

本名を春樹(はるき)といいました。

藤村は9歳のときに兄と東京へ出てくると、やがて明治学院に入学し、キリスト教や文学へ関心を寄せるようになります。

 

明治学院を卒業した藤村は、このころ知り合った北村透谷(きたむらとうこく)の影響を受けて、雑誌『文学界』に参加。

しばらくして、仙台で教師をはじめます。

しかし、1年足らずでそれをやめ、東京にもどってきてしまいました。

 

東京に戻った藤村は、1897年。

これまで発表した詩をまとめて『若菜集』を出版。

青春の情熱を高らかに歌い上げた『若菜集』は、多くの青年に受け入れられ、日本近代詩の出発を告げるものとなります。

また、これにより藤村の名が知れ渡りました。

 

1899年。

藤村は長野で小諸義塾の教師となります。

教師として生活する中、やがて「詩では考えていることを表せない」と感じるようになります。

そこで、文章によって自分を表現しようとして『千曲川(ちくまがわ)のスケッチ』などの短編小説を書き上げました。

『破戒』を発表!小説家として出発

その後、東京にもどった藤村は、長編小説『破戒』を書きあげます。

被差別部落の問題を取り上げたこの作品は、気持ちの描き方や文章の新鮮さもあって多くの反響を呼びます。

こうして、社会の裏表や人の心の善悪など、現実をありのままに描く自然主義文学が世の中に広まりはじめます。

 

『破戒』によって小説家として認められるようになった藤村は、自分の経験をもとにした作品をいくつも発表。

『春』『家』『桜の実の熟するとき』などの作品が生まれます。

 

1913年。

妻を失って精神的に不安定となった藤村は、気持ちを変えるためにフランスへ旅に出ます。

しかし、翌年。

第一次世界戦争がはじまったため、わずか3年で帰国することになります。

帰国後は新たな出発を目指して『新生』を発表。

さらに『フランス紀行』などの童謡も作りました。

 

1929年。

『夜明け前』の執筆を開始します。

これは幕末・維新の動乱のうねりに飲みこまれた主人公、青山半蔵の歴史を描いたもので、父をモデルに描かれた作品。

約6年もの歳月をかけて作られ、日本の近代歴史文学を代表する傑作となりました。

 

1935年。

日本ペンクラブ会長となった藤村は、翌年。

国際ペンクラブ大会に日本代表として参加。

やがて芸術院会員となり、1943年に『東方の門』を書いているときに病気で亡くなりました。