フロンティア・スピリット!初代北海道庁長官・岩村通俊の功績!!

札幌の判官さまといえば、札幌の街づくりに貢献した島義勇が挙げられます。
しかし、その壮大な事業を実現させたもうひとりの判官がいることは、あまり知られていません。
初代北海道庁長官となった、島義勇の後任。
判官・岩村通俊です。

現在、北海道神社のおひざもとにある円山公園には、岩村通俊の銅像がひっそりとたたずんでいます。
岩村通俊はどのような人物だったのでしょうか。
今回は、北海道の開拓にフロンティア・スピリットをたぎらせた岩村通俊の功績をご紹介します。

土佐勤王党とも親しかった

土佐勤王党は、土佐藩で結成された尊王攘夷を目的とした組織です。
武市半平太を中心に、縁戚である坂本龍馬や、幕末四大人斬りの岡田以蔵も参加していました。

岩村通俊は、この岡田以蔵から剣術の手ほどきをされたといいます。
土佐勤王とも親しくしており、武市半平太や坂本龍馬とも面識があったようです。

岩村通俊は、土佐藩・陪臣(主君の家臣の家臣)の嫡男であったため、家格は低いものでした。
いわゆる「又家来」というものです。
ですが、能力が認められ藩政でも活躍し、戊辰戦争時には新政府軍の軍艦にも乗り込みました。

明治政府が樹立されると、箱館府権判事開拓判官となり、箱館に着任することになりました。
そして東久世通禧のもとで事業にあたっていましたが、札幌エリアの開拓を任されていた判官・島義勇が罷免されたことで、その後任として札幌へと赴くことになったのです。

“いごっそう”のフロンティア・スピリット

「札幌」は中心地の整備が途中。
岩村通俊判官は、前任・島義勇の事業を引き継いで、開拓を再開させる必要性がありました。
すぐさま破綻した財政を立て直した岩村通俊は、万全の状態で事業再開へとこぎつけました。
札幌開拓は順調に進み、赴任3年目には正式に札幌が北海道の首都になりました。

赴任から4年。
岩村利通は判官を免官されてしまいました。
理由は、開拓次官として赴任していた黒田清隆と対立したことでした。

その後、佐賀県令として赴任した岩村利通。
このとき、元開拓使判官の島義勇が佐賀の乱を起こしたため、岩村利通はこれを鎮圧し、島義勇は処刑となりました。
島義勇の処刑の際、岩村利通はどのような心境だったのでしょうか・・・?

西南戦争が勃発すると、岩村利通は鹿児島県令として赴任することになりました。

ふたたび北海道へ……初代北海道庁長官になる

その後、司法大臣を務めながら北海道庁の設置に奔走した岩村利通。
北海道庁の設置が実現すると、自らが初代長官となって北海道に戻りました。

北海道庁長官として赴任したときには、開拓前とは比べ物にならないくらい発展していました。
ですが、感慨にふけっている余裕はありません。
北海道庁長官として全体に目を向けなければなりませんでした。

開拓地として着目したのは上川エリアでした。
岩村利通はさまざまな事業をおこない発展させました。
しかし、ふたたび黒田清隆が立ちふさがりました。
伊藤博文内閣から黒田清隆内閣になると、岩村通俊は北海道庁長官を追われてしまったのです。

中央政府に戻ると、山縣有朋内閣で農商務大臣に就任。
その後も宮中顧問官や貴族院議員として活躍し、華族の一員となりました。

通俊の功績を称え、現在も旭川市常磐公園・札幌市大通公園・札幌市円山公園には銅像が建っています。