試し斬りなら、山田浅右衛門に頼め

<出典:wikipedia

首切り浅右衛門、人斬り浅右衛門と呼ばれる江戸時代の死刑執行人、山田浅右衛門(やまだあさえもん)を知っていますか?
「山田浅右衛門」は、一人の人物の名前ではありません。
江戸時代に御様御用(おためしごよう)と呼ばれ、刀剣の試し斬り役を務めていた山田家の当主が代々名乗った名前です。

実際に人を斬って刀剣の切れ味を確認するのが御様御用の仕事。
将軍の佩刀(はいとう)の切れ味を確認するため、死罪に処せられた者の死体を用いて,牢屋内の様場(ためしば)で執り行いました。
腰物(こしもの)奉行らの立会いの下、土壇に横たえられた死体を据え物斬りし、
斬った後は牢屋奉行と共に検分の後、刀の切れ味を将軍に報告するのが職務でした。
大名,旗本,陪臣から試し斬りを依頼されると、町奉行同心に代わって斬首刑の首打ち役を務めるときに依頼された刀を使用して試したそうです。

なぜ山田浅右衛門だけが御様御用になれたのか

当時、試し斬りのための「試刀術」もしくは「試剣術」の遣い手による、罪人を試し切りする幕臣の職がありました。
しかし跡継ぎになれる技量を持つ者がいなくなり、代わりを弟子たちが努めました。
そして、その中に初代山田浅右衛門貞武がいました。
他の弟子達は子に役目を継がせませんでしたが、貞武は自らの技を伝えるため、子の吉時に継がせることを申し出、幕府に許可されました。
こうして山田浅右衛門家のみが御様御用の役目を務める体制が出来あがったのです。

山田浅右衛門の身分は浪人

山田浅右衛門は、浪人です。
幕臣ではありません。
腰物奉行の下で働き、代々名前を引き継いで仕事をするにもかかわらず浪人というのは不思議ですね。
その理由はいくつか説があります。

・山田浅右衛門吉時が将軍徳川吉宗の前で試し斬りをした際に、幕臣になりたいと申し出る機会を逸してしまった
・技量のある者だけが務められる臨時職だから、水準を満たさない者に世襲させる必要はないから

上の2つ以外にもいくつか理由は考えられますが、大きな理由がもう一つ。
「浪人ならば副業を持つことが出来る」という理由です。

罪人の死体が財源

処刑された罪人の死体は、山田浅右衛門家が拝領し、それを刀の試し斬りに用いました。
当時の日本では、刀の切れ味を試すには人間の身体で試すのが一番だと考えられていたのです。

平和な江戸で人の身体で試し斬りをするには、浅右衛門に依頼するのが唯一の手段でした。
また、罪人の数が足りず、斬った死体を何度も縫い直して、1人の死体で何振りもの刀の試し斬りを行いました。
自ら試し斬りを行う武士に対しては、死体を売却することもあったとか。

大名家・諸侯・旗本・庶民の富豪愛刀家に依頼される刀の鑑定も収入源でした。
さらに人間の臓器を原料とした、労咳に効くといわれる丸薬の製造販売で、山田浅右衛門家は莫大な収入を得ていました。

ただ、彼らはその金を死んだ者たちへの供養に惜しみなく使いました。
東京都池袋の祥雲寺に6代山田朝右衛門吉昌が建立した髻塚(もとどりづか/毛塚)と呼ばれる慰霊塔が残っています。
また、罪人の死の直前の辞世の句を理解するために、俳諧を学び、俳号を所持して仕事に尽くしました。
彼らはプロとしてのプライドを持って仕事に臨んでいたのです。

最後の山田浅右衛門

江戸幕府解体後は8代山田浅右衛門吉豊とその弟山田吉亮は、明治政府で引き続き処刑執行の役割を担いました。
しかしすぐに刑死者試し斬りや、その後の死体の扱いが禁止となり、1882年に斬首刑が廃止。
こうして「人斬り浅右衛門」としての山田浅右衛門家はその役目を終え、消滅しました。
最後の山田浅右衛門吉亮は1911年に亡くなっています。